第3回となる今回は、明六社を取り上げたい。明六社とは1873(明治6)年に創設された知識人を中心とする学術結社であり、演説会や機関誌の出版などを通じて維新初期の日本に大きな知的影響力を及ぼした。明六社自体は学術結社であったため、直接明治政府に働きかけるような活動は見られなかったが、参加した洋学者たちの多くは明治政府に登用された「学者官僚」でもあり、明治政府が国家建設にあたって洋学の知見を欲していた当時にあっては、明治政府のシンクタンク的存在たりえる可能性を秘めた機関であった。その活動期間はわずか2年と短かったが、明六社が活動を終えた後も、所属していた洋学者たちは各々の知見を以て活動を続けていった。
本稿では、明治維新初期における未完の政策起業集団として明六社を位置づけ、日本における政策起業のルーツの一つとしてみていきたい。
*サムネイル画像:東京日本橋風景(国立国会図書館所蔵)
1873(明治6)年7月、駐米公使の任を終えて帰国した薩摩藩出身の政治家・森有礼(もりありのり)は、在任中にアメリカで見た学術結社に刺激を受け、佐倉藩(現:千葉県)出身の思想家・教育者である西村茂樹のもとを訪れ、学術研究のための「学社」の創設を打ち明けた。これが明六社の起源であるとされる。以後、福沢諭吉・津田真道(つだまみち)・加藤弘之・西周(にしあまね)などを集め、1873年9月には準備委員会を結成、11月に社の機構や社則を議論する定期的な会議が持たれ始めたようである。翌1874(明治7)年3月、社則として「明六社規則」が制定されている。初代社長には福沢が選出されたが、本人が固辞したために発起人の森が替わって就任した。また、ほぼ同時に機関誌『明六雑誌』の創刊も始まっている(以上、明六社の設立経緯については、大久保利謙『明六社』を参照)。
さて社名の「明六」についてであるが、これは発足の話が起こった明治6年と「明け六つ」をかけているとされる。1873年は明六社の発足のほかにも数々の変革が起こった年であった。政治的には明治6年の政変が起こり、征韓論を主張する西郷隆盛をはじめとした政治家たちが一斉に政府を辞職し下野していった。この4年後にあたる1877(明治10)年には、下野していた西郷隆盛が明治政府に対して西南戦争を起こしたが、これは対外戦争を除いて明治政府最大の危機であった。当時の人々にとって、明治時代の将来は五里霧中であっただろう。「明け六つ」はそれまで用いられていた不定時法における夜明けを意味したが、政治的な大変革の裏面では文明開化が進んでおり、まさしく時代は「明け六つ」の状態であった。奇しくも1873年には太陽暦が採用され、時間感覚の点でも近代化が進んだ(「明六」の意味については『明六雑誌の政治思想 阪谷素の「道理」の挑戦』序章を参照)。
かくして、政治的には五里霧中でありながらも社会は近代への夜明けを迎えていた時代に明六社は成立した。以後、『明六雑誌』の刊行や演説会など当時としては画期的な学芸活動を行い、そこでは社員たちが近代のあるべき姿を語るなど、「明六」社の名にふさわしい活動が展開されていく。
明六社に集った個性的な社員たちは、いずれも当代一流の知識人であり、明六社社員としても、また明六社解散後も意欲的に活動を展開していた。以下、本編では主要な社員たちを中心に明六社の主要な社員たちを見ていこう。
明六社の発起人であり初代社長である森有礼は、薩摩藩出身でほぼ一貫して明治政府内で要職を務めるなど、発起人であり初代社長でありながら明六社の中ではやや異色な存在であった。駐米公使・駐清公使・駐英公使など主として外交官のキャリアが長かったが、教育に関しても一家言持ち合わせており、明六社のような学術結社のアイデアも駐米公使在任中に国民啓蒙の必要性を痛感したことから思いついたという。
早くから信仰の自由を強く主張するなど明治政府きっての開明派官僚であったが、士族の廃刀や英語の国語化を主張するなど、時にその言動は急進的なきらいがあった。第1次伊藤内閣・黒田内閣では文部大臣を務めたが、その急進性ゆえに国家主義者から疑念を持たれ、憲法発布式典の日に暗殺された(現職の大臣が暗殺された初めての事例である)。明六社内はもちろん明治政府内においても、極めて個性的な人物であった。
福沢諭吉の生涯と政策起業家としての姿については、第1回・第2回の記事を参照されたい。『西洋事情』(1866~1869年)・『学問のすゝめ』(1872~1876年)など当時としては最先端の洋学所を記して高名だった福沢は、明六社発足当時の段階ですでに一流の洋学者だった。こうしたこともあり、先述の通り初代社長に選出されたが、福沢は固辞したために初代社長は発起人の森となった。
発足当時の明六社に対する福沢の期待は高かったようであり、演説法などを明六社に導入し、自らも積極的に演説を行った。明六社の演説会を活気づけるのに大いに貢献したと言ってよいであろう。
津和野藩(現:島根県)出身の西・津田は20代の頃に江戸に出て幕府の洋学機関に勤務し、次いで徳川幕府の命を受けてオランダに留学した。ライデン大学で法学・経済学・統計学を学んで帰国した彼らは、立憲改革が進む当時のオランダの責任内閣制をベースとして、将軍・老中からなる執政府に行政権を、大名からなる上院と各藩士代表による下院に立法権を担わせる幕政改革を提案した。徳川幕府の崩壊によりこの構想は潰えてしまうが、最先端の社会科学の知見を持つ両者は維新後も明治政府に雇われ、西は兵制の調査に、津田は法律の調査に携わる。その後、両者は元老院議官となり、帝国議会開設後に西は貴族院議員に、他方で津田は衆議院議員に当選し初代衆議院副議長を務めた(のち貴族院に移籍)。
政府に雇われる傍ら、明六社においても西・津田はオランダ留学の知見を活かして明治政府の議院内閣制構想を早くから提唱している。西はまた独自に私塾を開いて哲学を講義しphilosophyを哲学と訳したとされる。
出石藩(現:兵庫県)出身の加藤は、幕末に名を馳せた洋学者・佐久間象山に弟子入りし、その後は徳川幕府の研究機関でドイツ語とドイツ学を学んだ。明治政府では文部官僚・外務官僚を務めた後、政体律令取調御用掛時代に政体論に関わる著作を何冊か記している。当初は天賦人権論を唱えていたが、1881(明治14)年以降はダーウィンの進化論の受容を経て天賦人権論否定派に立場を変えた。
1877(明治10)年には東京大学の初代総理(学長)となり、帝国大学となってからも総長を務めた。これ以外にも、元老院議官・貴族院議員・枢密顧問官・帝国学士院長などを歴任する。これらの経歴を見ても明らかなように、加藤は明六社メンバーの中でも官との距離が最も近かった存在であり、教育行政家としての側面を持っていた。
(21世紀日本の政策起業力プロジェクト事務局)
<参考文献>
犬塚孝明『森有礼』(吉川弘文館、1986年)
大久保健晴『近代日本の政治構想とオランダ』(東京大学出版会、2010年)
大久保利謙『明六社』(講談社、2007年)
河野有理『明六雑誌の政治思想 阪谷素と「道理」の挑戦』(東京大学出版会、2011年)
北岡伸一『独立自尊』(中央公論新社、2011年)
清水多吉『西周』(ミネルヴァ書房、2010年)
総務省統計局「日本近代統計の祖「杉亨二」」<https://www.stat.go.jp/library/shiryo/sugi.html>、2019年12月5日アクセス。
瀧井一博『明治国家をつくった人びと』(講談社、2013年)
ダニエル・W・ドレズナー/井上大剛・藤島みさ子『思想的リーダーが世論を動かす 誰でもなれる言論のつくり手』(パンローリング株式会社、2018年)
福沢諭吉/小室正紀・西川俊作編『福沢諭吉著作集』第3巻(慶應義塾大学出版会、2002年)
船橋洋一『シンクタンクとは何か 政策起業力の時代』(中央公論新社、2019年)
宮川公男『統計学の日本史 治国経世への願い』(東京大学出版会、2017年)
渡辺浩『日本政治思想史 十七~十九世紀』(東京大学出版会、2010年)