今回から連載を開始する「ヒストリア―政策起業家の日本史―」では、日本史上に見られる政策起業家あるいはその集団、そして政策起業を取り巻く政治過程に注目し、日本における政策起業のルーツを概観していきたい。
記念すべき第1回は、福沢諭吉を取り上げる。福沢諭吉の一般的イメージといえば、まず思い浮かぶのはわが国における最高額紙幣の肖像としてのそれであろう。あるいは、「天は人の上に人をつくらず」の一説で知られる『学問のすゝめ』の著者、文明開化を唱道した思想家、はたまたそうした慶應義塾を創設した教育者としての福沢であろうか。
以上が一般的にもよく知られた福沢のイメージ像であり、たしかに文明化や慶應義塾での教育は福沢が生涯かけて取り組んだ一大事業とみて間違いない。しかしながら同時に、福沢は封建制の残滓の一掃から憲法・議院内閣制・金融政策まで、政府に勝るとも劣らない政策知が展開されたものもあり、数こそ多くはないものの福沢に政府高官との接触を通して実現されたものもあった。
これらの政策、とりわけ政体に関するものは「官民調和」を目的として展開されたものであり、藩閥政府主導の近代国家建設に国民を巻き込もうとする点で、マルチステークホルダーの糾合を目指すものでもあった。以上の点を見れば、福沢は日本における政策起業家の先駆け的存在とすら言える(政策起業家の定義については、こちらの記事を参照)。
本稿では福沢の生涯を概観しつつ、彼の中に政策起業家の先駆け的な側面を見出し、日本における政策起業の歴史の第一歩として捉えていきたい。
*サムネイル画像:「東京汐留鉄道館蒸汽車待合之図」(国立国会図書館所蔵)
福沢諭吉は1834年、中津藩(現:大分県)の下級藩士の百助(ひゃくすけ)を父に、その妻順(じゅん)を母として大坂に生まれた。出生地が大坂であるのは、父百助が藩の会計管理を担当していたことによる。
しかし福沢が2歳の時、父百助が急死し、一家が大坂から故郷中津に戻ると生活は一変する。商人の町・大坂が身分に関係なく経済活動が行われる自由な空間として福沢の目に映った反面、中津藩では下級武士の出身であるが故に否応なく身分制度の窮屈さを福沢に強く感じさせた。
中津藩は藩主が蘭学を好んでいたために蘭学の先進地域であり、また幕末に特有の藩内の抗争もほぼなかったため、他藩に比して蘭学に触れやすくかつ比較的平和な地域ではあったが、「門閥制度は親の仇」(「福翁自伝」『福沢諭吉著作集』第12巻)とまで言わしめるほど藩内の身分制度は福沢にとって窮屈なものであった。
中津藩の身分制度に嫌気がさした福沢は、21歳の時大坂に出て、医者緒方洪庵の適塾で学ぶことになる。適塾は幕末に来日したドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾と双璧をなす当時最高峰の蘭学塾で、入塾して2年後に適塾の塾長となっていた福沢は蘭学の才能を買われて中津藩の命を受け江戸で蘭学塾を開くことになった。これは後に慶應義塾となる。
その後蘭学から英学に転向し、幕府の軍艦に潜り込んで3度の洋行を経て、福沢は洋学の知見を深めていく。福沢が帰国する頃には幕末の動乱も進展し、江戸幕府の崩壊と明治新政府の発足により、日本は近代国家への道のりを歩んでいく。『西洋事情』(1866~1869年)・『学問のすゝめ』(1872~1876年)・『文明論之概略』(1875年)など、後年に知られる代表的著作はこの頃に生まれた。西洋の知見がはるかに珍しかった当時において、これらの著作は大ベストセラーを巻き起こし、『学問のすゝめ』に至っては海賊版が出回るほどであった。ここに、一般的によく知られるような教育者・洋学者としての福沢像を見ることができよう。
福沢が同時代人の中でもユニークだったのは、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』に代表されるような、民衆に近代化した社会の重要性を訴えかける啓蒙的な執筆活動を行っていたこと、また同時に慶應義塾という近代化の実践の場を持っていたことが挙げられる。当時洋行経験者は少ないながらも一定程度おり、彼らの中には私塾を経営していたものもいたが、その著作は外国書の翻訳がほとんどであり、またそのアウトリーチも政府高官に限られていた。また、彼らの私塾も現在まで続いているものは数少ない。
以上のように、明治維新とほぼ同時に、教育家・洋学者としてそのキャリアをスタートさせる福沢だが、その著述スタイルは次第に西洋文明を論ずる理論家から具体性を持った提言を行う政策提言者へと変貌し始める(平石直昭「福沢諭吉の戦略構想」)。それが最初に現れたのは、1875年に出版された『文明論之概略』の第10章での外交政策に関する指摘である。
『文明論之概略』はその名の通り西洋文明について包括的に論じた著作であり、国家レベルの政体から国民の道徳などについて幅広く議論を展開し、最後に位置する第10章において近代主権国家としての独立性を論じ、それを妨げる2つの「外国交際病」を指摘した。一つは、西洋が資源加工国であるのに対し、日本は資源輸出国であり、前者は富を増していくのに対し後者は富を増加させることが出来ないとするものである。モノカルチャー経済や一次資源の輸出に依存する国はなかなか経済成長が出来ないとする、国際政治経済学における「資源の呪い」に類似した指摘である。
もう一つの外国交際病は、人民の外交に対する無関心である。圧倒的な軍事力・経済力を背景とする西洋諸国と外交上対峙しなければならない中で、人民が外交にいつまでも無関心である状態を福沢は批判し、世界の歴史や現状に対する理解を深め、政府の外交問題に対して人民が当事者意識を持つべきであると主張した。
当時は殖産興業政策も始まっており、円滑でこそなかったが明治政府による条約改正交渉も始まっているため、資源輸出による低経済成長と「外国交際病」という福沢の指摘は事実ではなかったかもしれないが、ある意味ではこれらは福沢なりの危機感の表れであった。
こうした「外国交際病」の解消のため、福沢は人民に当事者意識を持たせるための方策として地方議会(民会)の開設を主張した。地方議会開設を主張した部分は福沢の理論家としての自負ゆえに削除されてしまったが(平石直昭「福沢諭吉の戦略構想」)、後述するようにこの主張はこれ以後も福沢の持論として堅持され続けることとなる(小川原正道『福沢諭吉 「官」との闘い』)。
福沢が地方議会の開設を主張したロジックは以下の通りである。人民が外交問題に無自覚な慣習を続ければいつまでたっても知恵はつかず、それゆえ外国交際病も治らない。他方、当時政府系の知識人が主張していた通り、人民が不慣れな中でいきなり国政レベルの民選議会を開設しても上手く機能するはずはなく、また明治政府がいきなり民選議院を開設するとも思えない。福沢はそうした状況を受け、折衷案的方策として地方議会の開設を主張するのである。
『文明論之概略』以後、政策提言者・福沢の様相はさらに強まっていく。一度は地方議会開設の原稿掲載を見送った福沢だったが、これはその後も一貫した持論となり続け、1877年に西南戦争を受けて書かれた『分権論』で正式に公表される。『分権論』に先立ち「明治丁丑公論」という論説ですでに類似の主張をしていたが、この論説は西南戦争勃発直後という社会情勢を考慮して発表が憚られたためお蔵入りとなっていた(公表されたのは福沢の死後であった)。
『分権論』の内容について詳述する前に、まずは西南戦争までの経過について確認しておきたい。1873年、名誉と経済的収入を失いつつあった士族に対して不満を蓄積しつつあった士族への救済策として、西郷隆盛は朝鮮への開国要求と出兵を主張したが、大久保利通らは国内の整備が必要としてこれを退けた。これを不服とした西郷は明治政府を辞職し、彼を慕う士族の多くを連れて郷里鹿児島に隠遁していた。西郷自身は武力蜂起を望んでいなかったとされるが、1877年に政府による西郷暗殺の噂が流れたことを決起として両者はついに武力衝突に至った。
最終的に西南戦争は勃発から半年以上を経た段階で鎮圧されるが、剣を取って政府に抵抗してきた不平士族たちはペンに持ち替え、次第に言論による政府批判に活動の場を移していく(小川原正道『西南戦争と自由民権』)。最大にして最後の士族反乱としての西南戦争が鎮圧された後も、銃刀によってではなく紙面上においてなされるようになった士族の不満をどう吸収するかについては課題として残った。
こうした中、福沢は『分権論』において、まず維新以前に政治と軍事を担ってきた武士の忠義心・報国心はアメリカ国民の愛国心と類似していることを指摘し評価する。しかし維新以来「士族」となった侍たちは、維新と開化に順応して政府内に地位を得た者、維新と開化に賛同しつつも政府内に地位を得られなかったり事業に失敗した者、開化を好まず古い政治体制の温存を求める者、の3種に分かれてしまい、士族としての特権が廃止される中、成功した士族に対して守旧派の士族が憤懣を抱き、さらに急進的な民権家の教唆があってこれまでの士族反乱や西南戦争が起こったと福沢は考えた。
このような分析を前にして福沢は処方箋を提示する。すなわち、急進的民権家と守旧派士族の不満を解消させる手段として、地方分権を主張するのである。フランスの思想家・政治家トクヴィル(Alexis de Tocqueville)の著作『アメリカのデモクラシー(De la Démocratie en Amérique)』を引用しつつ、中央政府の担うべき役割としての「政治(government)」と、地方自治を指す「行政(administration)」、という区別をそれぞれ「政権」「治権」と訳出し、立法・軍事・外交など中央政府が担うべき「政権」に対して地方の公共事業や教育行政などは地方に任せるべきだとし、その担い手として士族層の重要性を指摘した(『福沢諭吉著作集』第7巻)。
福沢が国政レベルの議会開設の前提として『文明論之概略』で地方議会の開設を訴えていたのは先述の通りであるが、この構想に福沢は不平士族の不満吸収の意図も含めた。そして実際、西南戦争の翌1878年には、大久保が主導する明治政府は府県会という名の地方議会の開設に踏み切る。
同年、当時の東京府でも府会議員選挙が実施され、福沢は最多得票を得て当選した。この時福沢はいったん府会議員の職を引き受けたものの、府会副議長に選出されたために、多忙を理由として最終的に府会議員を辞職した。生涯通じて公職に就くことを避けてきた福沢がなぜ周囲に驚かれながらも引き受けたのかについては、日本の議会政治の重要な第一歩としての地方議会に期待を寄せたためだとされている(富田正文『考証 福沢諭吉』下巻)。
この時を唯一の例外として福沢が公職に就くことはなく、以後は慶應義塾での教育や言論活動など在野での活動に傾注していく。自ら汗をかいて政策を実装していく政策起業家としての福沢の姿は幻に終わってしまった。また事実上の政府首班だった大久保と親交があったとはいえ、直接『分権論』の主張を売り込んだわけでもないようである。
ただし、福沢が明治政府に先行していたという点は重要である。とりわけ単なる輸入学問ではなく、政治的状況を踏まえた上で自覚的に受容し、さらに説得的な政策に変換するその姿は西洋理論家から政策起業家に脱皮した福沢の面目躍如の瞬間であった。
(21世紀日本の政策起業力プロジェクト事務局)
小川原正道『福沢諭吉 「官」との闘い』(文芸春秋、2011年)
小川原正道『福沢諭吉と政治思想』(慶應義塾大学出版会、2012年)
小川原正道『西南戦争と自由民権』(慶應義塾大学出版会、2017年)
北岡伸一『独立自尊』(中央公論新社、2011年)
富田正文『考証 福沢諭吉』上下(岩波書店、1992年)
平石直昭「福沢諭吉の戦略構想 『文明論之概略』期までを中心に」『社会科学研究』第51巻第1号(1999年)
平山洋『福沢諭吉』(ミネルヴァ書房、2008年)
福沢諭吉『福沢諭吉著作集』第1~12巻(慶應義塾大学出版会、2002~2003年)
松田宏一郎「福沢諭吉の波紋」苅部直・片岡龍『日本思想史ハンドブック』(新書館、2008年)
真辺将之『大隈重信 民意と統治の相克』(中央公論新社、2016年)