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福沢諭吉という政策起業家(後編)

作成者: PEPPEP|2019/11/6 (水)

ヒストリア―政策起業家の日本史 第2回

前回に引き続き、今回も政策起業家としての福沢諭吉を取り上げる。これまで見てきたように、西南戦争後に地方議会の開設を主張し、政策起業家として大きく踏み出した福沢だったが、これ以後福沢の活動には陰りが見え始めることとなるが、それは明治国家の成長と軌を一にしていた。今回はその過程を見ていこう。

*サムネイル画像:「西海騒揺起原征韓論之図」(国立国会図書館所蔵)

明治政府の英傑たちと政策起業家・福沢

『分権論』の出版を経て政策起業家に脱皮した福沢だったが、明治政府内では世代交代が起こっていた。明治政府で主導的立場にあった大久保利通との関わりは先に触れた通りだが、大久保と並んで「維新三傑」と言われた木戸孝允・西郷隆盛ともつながりがあった。

しかし『分権論』が出版された翌1878年、西南戦争の中で西郷は自決し、木戸もそれに先立って病没。西南戦争の収束を主導した大久保も1878年には東京紀尾井坂で不平士族に暗殺され、福沢と明治政府の窓口となっていた「維新三傑」たちは1877~1878年にかけてことごとくこの世を去っていった。

替わって明治政府を主導する立場についたのは、「維新三傑」たちよりも10歳前後若い伊藤博文・井上馨・大隈重信などである。伊藤は内務卿、井上は外務卿、大隈は大蔵卿と、それぞれ枢要な地位を占め、国務大臣相当の参議も兼任して大久保亡き後の明治政府において主導的立場を担っていく。彼らはまた早くから政治的近代化、すなわち立憲政治の導入に大きな関心を示しており、大隈を中心として今後の政治体制などについて構想を練っていた。

この中で福沢は特に大隈と親しく、慶應義塾出身者が何名か大隈の下に若手官僚を派遣もしていたが、この中には首相在職中に5・15事件で暗殺され政党内閣のラストランナーとなる犬養毅も含まれていた。

大隈と人的関係の深かった福沢だが、こうした関係を活かし、大隈を通じて何点かの政策提言を行っている。この中でも特に成功したのは、為替相場の安定化と横浜正金銀行の設立に関するものであった。

1877年の『民間経済録』を記して経済分野にも議論の射程を伸ばしていた福沢であったが、翌1878年にはさらに『通貨論』を記し、西南戦争後のインフレについて論じるなど、金融に関しても比較的詳細な議論を展開していた(『福沢諭吉著作集』第6巻)。経済的視野を養いつつあった当時の福沢が注目したのは、何よりも貿易に関する為替相場である。

当時は洋銀が為替通貨として使用されていたが、この洋銀が投機の対象となり不必要に相場が高騰していることについて福沢は大蔵卿であった大隈に対して懸念を示し、為替取引専門の銀行の設立を提言していた。この提案は1880年、横浜正金銀行の設立に結実し、門下生の中村道太と小泉信吉がそれぞれ頭取・副頭取に就任した。横浜正金銀行はその後も外国為替銀行として独占的立ち位置を占め、国際金融に大きな影響力を持った。

福沢にとっての「官民調和」と議院内閣制

1878年に『分権論』で主張した地方議会が開設され、1880年には横浜正金銀行の設立も実現するなど、さながら『文明論之概略』以来の主張を順調に実現しつつあるような状態であり、おそらく福沢は当代の知識人としても政策起業家としても、おそらく順風満帆な状態にあった。1880年代以降は議論の射程も地方議会から国制レベルの議会まで跳躍していく。その先駆けとなったのは、1879年に出版された『民情一新』であった。

同書において、福沢は鉄道や蒸気船などの交通システム、あるいは郵便制度・電信・印刷技術など情報通信技術の進歩が人民の知見を拡大してきたことを指摘する。しかし同時に、それらは無政府主義や社会主義など急進的・反政府的な思想の拡大を伴っており、ロマノフ王朝政府・ナポレオン三世の第二帝政政府・ビスマルク政権など、ヨーロッパ各国の政府がそれらの拡大と社会秩序の動揺を危惧して専制的姿勢を取り、全面的に「官民衝突」が起こり、かえって混乱と不安定をもたらしていることを引証し、人民の開化のネガティブな副作用にも警鐘を鳴らすのである。

このように、ヨーロッパ各国が専制的な政府と急進的な人民との衝突に見舞われる中、急進的で暴力に訴えることのない「改進派」と専制に陥らない「守旧派」が国会においてその代表者同士で議論を行い、円滑に対立を政治過程に落とし込んでいる国として福沢はイギリスを取り上げる。こうして福沢は人民の不満と政府の懸念が正面から衝突することなく、穏健な形で党派対立を政治過程に吸収する二大政党制・議院内閣制を、「官民調和」の政治体制のロールモデルであるとして注目するのである(『福沢諭吉著作集』第6巻)。

1885年にはさらに『帝室論』・『尊王論』を出版し、議院内閣制の制度設計をより精緻化する。『分権論』ではトクヴィルを引証したように、『帝室論』・『尊王論』ではイギリスのジャーナリストであるバジョット(Walter Bagehot)の『イギリス憲政論(English Constitution)』をタネ本として、天皇を政治社外に置くことにより社会の安定化機能を持たせることを主張した(『福沢諭吉著作集』第9巻)。

ここにきて福沢は政治経済まで幅広く射程を広げ、政治論についても抽象的文明論・西洋の見聞から地方議会論を経て国家レベルの政体論へと大きく飛躍していった。政策起業家としても明治的知識人としてもピークを迎えていた福沢だったが、この後の福沢の活動はある事件をきっかけに大きく衰退していくこととなる。以下それについて検討したい。

政策起業家・福沢の挫折―明治14年の政変

福沢が議院内閣制を展開する傍ら、折しも政府内においても国会開設を見据えた動きが加速しており、伊藤・大隈ら各参議に対して国会開設に関する意見書の提出が求められていた。国会開設を時期尚早とする意見書を提出する保守的な参議もいた中で、兼ねてより開明性で知られていた伊藤・大隈らは度々私邸に集まって会合を重ねていた。

これと同時並行して、福沢は伊藤・井上馨らから政府系機関紙の発刊を依頼されていた。一時は躊躇した福沢だったが、次第に伊藤・大隈らの開明性に一定の理解を示し、国会開設を見据えた言論空間の活性化への貢献の意図もあって、政府系機関紙発刊を前向きに検討し始めた。

こうした中、伊藤・井上馨が漸進的な国会開設を主張する意見書を提出した一方で、大隈はやや拙速に議院内閣制を主張する意見書を単独かつ秘密裡に提出し、ここに開明派参議間での亀裂が生じた。一旦は和解した伊藤と大隈であったが、その後北海道経営を管轄する開拓使において薩摩出身の実業家五代友厚に対し官有財産の有利な払い下げが暴露され、大きな論争を巻き起こしていた。

この時、新聞紙上で払い下げ事件の批判を展開したのが慶應義塾出身者であったこと、『民情一新』をはじめとする議院内閣制の主張が大隈意見書との関係性を疑われたこと、などの理由から、明治政府内では大隈が福沢と結託して政府転覆をはかったのではないかとの疑念が、払い下げを主導した開拓使長官の黒田清隆をはじめとして生じ始めていた。

大隈の意見書については一旦和解していたため、払い下げ事件当初は様子をうかがっていた伊藤・井上馨だったが、明治政府内の混乱収集のため最終的に大隈の政府追放に同意し、大隈は参議を罷免され、大隈のもとに集っていた慶應義塾出身の若手官僚たちも次々と政府を去った。

以上、大隈の国会開設意見書をめぐる事件と、開拓使の官有物の払い下げ事件の二つのフェーズから起こった一連の事件は、明治14年の政変と呼ばれる。この時の福沢はといえば、大隈との親しい関係性こそあれ、結託したとの陰謀論が政府内に充満しているなどつゆ知らず、むしろ門下生による払い下げ批判のアジテーションにはやや冷ややかですらある中、政府系機関紙の計画がどう進行しているかも分からない状態にあった。

しかしながら大隈の政府追放を機に伊藤・井上馨をはじめとする明治政府との関係は断絶してしまい、当然ながら政府機関紙発刊の件も自然と立ち消えとなってしまった。福沢―大隈陰謀論と政府機関紙発刊中止について、福沢は伊藤・井上馨に書簡で何度も説明を求めたが、政局の都合から消極的に大隈を放逐したこともあり、満足な回答は得られなかった。

先述したように、福沢はその後も『帝室論』・『尊王論』を記して議院内閣制の主張を再度展開するが、むろん明治政府に訴えかけるものはほとんどなく、むしろ欧州憲法調査を経た伊藤や彼のブレーンの井上毅が主導となり、条文上はドイツ=プロイセンに範を採った憲法の制定作業が進められる。『帝室論』などで展開された立憲君主制・議院内閣制が日の目を見るのは大正デモクラシーを経た1920年代の一時期まで、完全に定着するのは戦後の現行憲法制定まで待たねばならなかった(小川原正道『福沢諭吉』)。

明治国家の近代化と福沢の死去

明治14年政変以後、明治政府との関係性は途絶してしまったが、潰えてしまった政府系機関紙発刊の計画は『時事新報』との名で民間の一新聞として結実する。以後『時事新報』は慶應義塾での教育と並んで福沢の言論活動の中心的な場となり、戦前の新聞の中でも記事の正確さの点で随一の質を誇った。一方で政府の側でも、内閣制度の創設(1885年)・大日本帝国憲法の発布(1889年)・帝国議会の開設(1890年)・不平等条約の改正(1894年・1911年)など、福沢が求めてきた政治課題は漸次解決されていく。

これと軌を一にして、福沢の言論活動の比重も西洋の諸制度をベースとした壮大な政策提言から、時々の内閣の政策や政治・外交情勢に対する時事評論が中心となっていく。明治14年の政変で関係が悪化した伊藤博文らを酷評したり、親交のあった大隈重信や改進党を特段に持ち上げたりするようなことはなく、きわめて中立的・客観的に評論していた。

1898年には盟友大隈重信が初の本格的政党内閣のもとで首相に就任し、1900年に伊藤博文が後の二大政党の一翼を担う立憲政友会を創設したのを見届けて、1901年福沢諭吉は脳溢血により死去した。1898年にすでに脳溢血を発症していたため、最晩年はほとんど筆が取れない状態であったという。

福沢の生涯の中で「政策起業家」に近かった時期は、『文明論之概略』や『分権論』を著した1870年代末から『帝室論』・『尊王論』を著した1880年代半ばまでの約10年間ほどであり、決して長いとは言えないが、それでも明治政府に先行して開明的な政策を提言し、場合によっては政府高官を動かして実現にこぎつけた点は注目に値する。自由民権運動の名のもとに、やや急進的な主張が跋扈することもあった言論状況を憂いつつ、時に漸進的、時に頑迷な明治政府に対しても改革を求め続けた中庸的な姿勢こそが、明治の政策起業家に求められた姿勢だったのかもしれない。

(21世紀日本の政策起業力プロジェクト事務局)

参考文献

小川原正道『福沢諭吉 「官」との闘い』(文芸春秋、2011年)

小川原正道『福沢諭吉と政治思想』(慶應義塾大学出版会、2012年)

小川原正道『西南戦争と自由民権』(慶應義塾大学出版会、2017年)

北岡伸一『独立自尊』(中央公論新社、2011年)

富田正文『考証 福沢諭吉』上下(岩波書店、1992年)

平石直昭「福沢諭吉の戦略構想 『文明論之概略』期までを中心に」『社会科学研究』第51巻第1号(1999年)

平山洋『福沢諭吉』(ミネルヴァ書房、2008年)

福沢諭吉『福沢諭吉著作集』第1~12巻(慶應義塾大学出版会、2002~2003年)

松田宏一郎「福沢諭吉の波紋」苅部直・片岡龍『日本思想史ハンドブック』(新書館、2008年)

真辺将之『大隈重信 民意と統治の相克』(中央公論新社、2016年)