論考

2020.01.10

明六社―明治6年の政策起業家プラットフォーム(後編)

ヒストリア―政策起業家の日本史 第4回

前回に引き続き、今回も明六社を取り上げる。前回までは明六社の成立経緯及びその主要メンバーを中心に取り上げてきたが、それ以外のメンバーと、1875(明治8)年の明六社の終焉までを見ていこう。

*サムネイル画像:西海騒揺起原征韓論之図(国立国会図書館所蔵)

明六社のメンバー②

杉亨二(すぎこうじ)(1828~1917)―日本統計学の祖

長崎出身の杉は、青年期に大坂の適塾で蘭学を学んだ後、徳川幕府の洋学機関に勤めていた際、先述した西周・津田真道がオランダ留学からもたらしたドイツ・オランダの統計資料に触れ、統計学に開眼した。幕府の滅亡に伴って徳川家とともに駿河藩(現:静岡県)に移った杉は、同地において「駿河国人別調」という名で国勢調査を行っており、その成果は「駿河国沼津政表」としてまとめられた。

1871(明治4)年、大蔵省に統計司との名で統計に関する部局が設置され、統計に深い関心を示していた当時の大蔵大輔(次官)・大隈重信の招きで大蔵省にて統計官として勤務することとなる。1879年には、実験的試みとして現在の山梨県で「甲斐国現在人別調」という名で日本における国勢調査を実施している。1881年には明治政府内の一部局として統計院が新設され、組織の大幅な拡充がなされたが、それを主導した大隈重信が政変で政府を追放されてしまったことで統計院は縮小されることとなった。1885年の内閣制度創設に伴い政府内の統計部局は内閣統計局となったが、これを機に退官した。以後政府には戻らずに統計学者たちの結社である「統計学社」(「表記学社」「スタチスチック社」から改名)の社長として、日本における統計の普及に尽力した(杉については、宮川公男『統計学の日本史 治国経世への願い』に多くを負っている)。

杉享二肖像(国立国会図書館所蔵)

明六社でも活発に活動している様子が伺えるが、『明六雑誌』に掲載された演説や論説は統計とは直接かかわらないものが多いため、統計学以外にも幅広い知見を持った学者官僚であったようである。

箕作麟祥(みつくりりんしょう)(1846~1897)―近代法学の基礎をつくった男

蘭学者の家に生まれた箕作は、早くから漢学・蘭学・英学などに触れ、16歳の若さで徳川幕府の洋学機関の教官となり、洋書の翻訳業務に従事した。また幕府の随行員としてフランスに渡航した経験を持ち、それゆえフランス語に長けていた。そのため、明治政府にも引き続き雇われ、その才能を活かして外国法の翻訳業務に従事した。お雇い外国人の法学者はおろか法学の文献すらまだ十分無い中、フランスの法典を日本語に翻訳する作業を通じて「権利」「義務」「動産」「不動産」など今日に続く法学用語を作り出した。

箕作麟祥肖像(国立国会図書館所蔵)

このように、彼の事績は専ら翻訳家としてのそれであり、彼自身が直接見解を示す機会は少なかった。『万国叢話』に掲載した「国政転変論」などが数少ない作品であり、これは民権派から「東洋のルソー」「日本のモンテスキュー」と称されるほど好評を得た一方、箕作が政府の翻訳官であったため、政府内からも批判を受けた。しかしながら箕作自身が直接急進的意見を表明するようなことはなく、以後はフランス人の法律顧問ボアソナードの片腕として民法典の編纂作業に携わった。箕作が深くかかわった民法草案(ボアソナード草案)は1890年の公布の際に大論争を巻き起こして潰えてしまった。同じ頃、近代的な法学教育を受けた若手の法学者たちが台頭し始めると、翻訳に専従する箕作は彼らから軽んじられることもあったが、晩年は司法次官・貴族院議員・和仏法律学校校長(現:法政大学)・行政裁判所長官などを務め日本の司法行政にも間違いなく足跡を残した存在であった。

この他にも、J.S.ミルの『自由論(On Liberty)』を『自由之理』とのタイトルで翻訳した中村正直、道徳思想家の西村茂樹、あるいは福沢と並ぶ経済学の紹介者である神田(かんだ)孝(たか)平(ひら)など、個性的なメンバーが多数参加していた。発起人・初代社長の森を除いて薩長藩閥出身者はおらず、幕末に洋学者として幕臣となった人びとが多かった。福沢のように在野の教育者・思想家として生涯を全うした者もいたが、明治初年に当時珍しかった洋学の知見を買われて政府に雇われた経験のある社員が多くを占めており、中には加藤弘之のように教育行政家としての手腕を発揮するものもいた。

組織としての活動

さてかくも個性的なメンバーが揃った明六社では、いかなる活動が展開されたのだろうか。1874年初旬に始まった会合は、築地にある当時有数の洋食店・精養軒で夕食を囲みながら行われたという。ほぼ同時期に刊行が始まった『明六雑誌』は談論という形で会合での社員の談話を掲載していたが、次第に月2回のペースで演説会を開催するようになり、その内容は『明六雑誌』にも掲載された。

明六社で行われた演説の内容は『明六雑誌』などから、1874年11月~1875年11月までの約1年間分については演説内容が推察されている(大久保利謙『明六社』)。中でも目を引くのは、「妻妾論ノ疑」(阪谷素)・「夫婦同権ノ流弊論」(加藤弘之)・「妾説ノ疑」(阪谷素)・「善良ナル母ヲ造ル説」(中村正直)など、夫婦関係や妾に関するものが多数演説の議題となっていることが伺える。このほか、「内地旅行」(西周)・「貿易改正論」(杉亨二)・「貿易保護論」(西周)・「貿易権衡論」(津田真道)・「自由交易論」(西村茂樹)などが頻繁に上がっているが、これらはいずれも条約改正に関わるものであった。このほかにも多数興味深いテーマで演説会が行われているが、政治体制や外交問題などをはじめとしたハイポリティクスから近代における個人のあり方まで、幅広く議論が展開された。

月2回の演説会は公開で行われ、1875(明治8)年3月1日以降の定期演説会は当時著名なジャーナリストだった福地源一郎、あるいは伊達宗城(だてむねなり)・亀井玆監(かめいこれみ)・大給恒(おぎゅうゆずる)など旧藩主の大名政治家たちの名前もみられる。このほか、まだ無名の青年や知識人たちも聴講に訪れたが、その中には自由民権運動のイデオローグで後に自由党所属の衆議院議員となる植木枝盛(うえきえもり)も含まれていた。植木は足しげく演説会に通ったようであり、ここでの経験は民権運動家や政治家としての植木に少なからぬ影響を与えたであろう。

明六社の終焉

1875(明治8)年2月、初代社長就任から1年を経て社長を長老の箕作秋坪(みつくりしゅうへい)に譲っていた森は、1875年3月26日に発刊された『明六雑誌』第30号にて「時ノ政事ニ係ハリテ論スルカ如キハ本来吾社開会ノ主意ニ非ス」「不要ノ難事ヲ社ニ来スモ計ル可ラス」との談話を掲載した。

この森の憂慮は、談話が掲載された3ヵ月後に讒謗律・新聞紙条例という言論弾圧立法の制定として現実のものとなった。これらの法令は、前年より起こった自由民権運動を対象として制定されたものであったが、言論活動の取り締まり強化は当然ながら明六社にも及んだ。

5月に社則改正に伴い会幹6名による合議制となったため、すでに前社長で会幹の1人だった箕作秋坪は9月1日の例会において、『明六雑誌』の廃刊を主張した。これによって明六社内に存続をめぐって大論争が発生し、反対を表明した森有礼・西周・津田真道・阪谷素(さかたにしろし)の4名を除くその他の社員がみな賛成し、明六社は事実上の解散となった。『明六雑誌』もその後1875年10月(第42号)・11月(第43号)に2回ほど発刊されたが、第43号に終刊の表明もないまま廃刊となり、演説会も社外の参加者への正式な連絡なく行われなくなってしまったようである。

征韓論で明治政府が分裂し、市民社会もまだ「明け六つ」だった明治6年という時代、当時の一流の知識人たちを集めた明六社はここに終焉した。その活動期間はわずか2年という短さであった。

『明六雑誌』第1号(国立国会図書館所蔵)

明治6年の政策起業家プラットフォーム―その現代への教訓

最後に、明六社の足跡が、現代日本のシンクタンク・政策起業家集団を考える上で持つ含意に触れて筆をおきたい。

しばしば、危機の時代、あるいは特定の政策分野の黎明期に、既存の官僚機構で対応できない新たなパラダイムが求められるときに、シンクタンク・政策起業家集団は需要されるとしばしば指摘される。「明け六つ」の時代とは明治日本にとってまさにそのような歴史の節目であった。

そのような中で、明六社という当代一流の知識人たちを集めた政策起業家プラットフォームが誕生したことは、歴史の必然であっただろう。明治の政策起業家たちは、自らのそうした使命を認識し、政府に対する政策の代替案の提示、政策人材の供給、市民社会へのアドボカシーなど現代のシンクタンクに近い活動を行っていた。

しかし明六社は、提示した政策アイデアを当局とともに実装(implement / do)するという、シンクタンク・政策起業集団として最も肝心な機能を殆ど果たせずに終わってしまった。

恐らくそれは学者官僚を多数抱えながらも、学術結社としての中立性のもとで、政府の政策形成から一定の距離を取ろうとする矛盾するアイデンティティを抱えたことによるものであろう。その点では、明六社のシンクタンクとしての「失敗」は、学術結社としての軛から最後まで逃れられなかったことかもしれない。

現代でも学術研究機関たる大学と、政策研究・推進機関たるシンクタンクは異なる任務を有し、学術機関の振る舞いと、政策研究・推進機関としての活動はイコールではない。明六社の影響力の限界は、まさにこの点から説明されよう。

しかし明六社は、市民社会の啓蒙や、潜在的な政策起業家の育成という意味で、明治日本の公共空間に影響力を与えてきた。また、明六社が事実上解散した後も、社員たちは各々の立場で活動を続けた。1890年に帝国議会が開設されると、明六社員の多くは洋学者OBとして「是々非々主義」を掲げる貴族院に立法に参画していく。彼らをはじめ、貴族院の議員たちは「皇室の藩屏(防備のための囲い)」として、政党勢力が多数を占める衆議院ともまた異なった視点から、明治日本の統治をめぐる議論に携わっていくことになる。


こうして、明六社が政策起業家プラットフォームとしての役割を静かに終えたのち暫くして、明治日本の次なる政策起業家集団が台頭する。それは、自由党・立憲改進党といった政治結社、のちの政党であった。

当初は在野の政治結社として、議会開設後には衆議院を基盤に藩閥政府と激しく対立していた政党は、議会政治への習熟や日清戦争などの国家的危機を経て責任政党としての力をつけていく。

19世紀から20世紀の変わり目頃には、既存の藩閥政府に対する政策のオルタナティブを提供し、また藩閥政府と協働して政策過程に参画していくことになる(第5回へ続く)。

(21世紀日本の政策起業力プロジェクト事務局)

参考文献

犬塚孝明『森有礼』(吉川弘文館、1986年)

大久保健晴『近代日本の政治構想とオランダ』(東京大学出版会、2010年)

大久保利謙『明六社』(講談社、2007年)

河野有理『明六雑誌の政治思想 阪谷素と「道理」の挑戦』(東京大学出版会、2011年)

北岡伸一『独立自尊』(中央公論新社、2011年)

清水多吉『西周』(ミネルヴァ書房、2010年)

総務省統計局「日本近代統計の祖「杉亨二」」<https://www.stat.go.jp/library/shiryo/sugi.html>、2019年12月5日アクセス。

瀧井一博『明治国家をつくった人びと』(講談社、2013年)

ダニエル・W・ドレズナー/井上大剛・藤島みさ子『思想的リーダーが世論を動かす 誰でもなれる言論のつくり手』(パンローリング株式会社、2018年)

福沢諭吉/小室正紀・西川俊作編『福沢諭吉著作集』第3巻(慶應義塾大学出版会、2002年)

船橋洋一『シンクタンクとは何か 政策起業力の時代』(中央公論新社、2019年)

宮川公男『統計学の日本史 治国経世への願い』(東京大学出版会、2017年)

渡辺浩『日本政治思想史 十七~十九世紀』(東京大学出版会、2010年)

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