コンテンツまでスキップ

ティム・ファン「進歩の遅延:mRNAワクチン開発からの教訓」

PEP では、政策起業に関連した英語記事を翻訳して発信する翻訳コンテンツを定期的に発信しています。
今回は、イノベーション政策に関する米国のシンクタンク Institute for Progress から、以下の記事をお届けします。
翻訳元: Tim Hwang, Progress Deferred: Lessons From mRNA Vaccine Development, Institute for Progress, 2024/2/20

 

50782991392_4feddee788_k

Photo credit: Asian Development Bank on flickr 

mRNAワクチンはもっと早く実現できたのか?

mRNA技術は、社会が病気と戦う能力を大幅に向上させた画期的な進歩の代表例です。新型コロナウイルスパンデミックに対応するために使用されて以来、mRNAワクチンはHIV、MERS、マラリア、結核などの病気の拡散を阻止するためにも応用されています。mRNAワクチンは、従来のワクチンよりも迅速かつ低コストで開発・製造できるため、生物学的脅威に対してより迅速に対応することが可能です。

2020年の世界的な危機は、mRNAワクチンの開発と展開を加速させました。しかし、mRNAワクチンの概念はそれより数十年も前の1988年に初めて提案されていました。外来mRNAを修飾して体の免疫反応を引き起こさずに細胞に導入することができるという重要な発見は、カタリン・カリコ博士とドリュー・ワイスマン博士2005年に初めて発表されました。カリコ博士とワイスマン博士の論文は、1960年代にさかのぼる観察結果1に基づいていました。

mRNAワクチンを実用化するために必要な基盤の多くは、新型コロナウイルスと戦う以前から存在していました。オペレーション・ワープ・スピードが数ヶ月以内に多くのワクチン設計と製造の問題を迅速に解決できたことは示唆的です。これは、mRNAワクチンの実現における主な制約が、知見の不足や技術的制約といった基本的な障壁ではなく、資源の問題であったことを示唆しています。

この論文は、この不一致について考察しています。後から見れば、mRNAワクチンは明らかに大きなブレークスルーでした。しかし、長い間、カリコ博士やワイスマン博士、そしてモデルナやビオンテックのようなスタートアップはあまり知られていませんでした。なぜmRNAワクチンはもっと早く開発され、実用化されなかったのでしょうか?

このことを問うべき実用的な理由があります。もしmRNAワクチンが世界的な緊急事態の出現前に公衆衛生ツールとして利用可能であったなら、多くの命が救われていたでしょう2。mRNA技術を他の公衆衛生上の脅威に対処するために応用するフォローオン・イノベーションも、数年早く利用可能になっていたでしょう。このケースで開発を遅らせた構造的な摩擦を理解することで、社会が重要なブレークスルー技術の利益をより早く享受できるようにするための広範な改革を明らかにすることができるかもしれません。

mRNAワクチン開発の歴史的な進展を振り返ると、技術の登場を大幅に遅らせた3つの主要な摩擦が浮かび上がります。

  • mRNAの実現可能性の認識

mRNAワクチンに類似した技術領域でこれまでに得られた成果があまり芳しいものではなかった、という背景は、mRNAワクチンの開発に対する追い風になりました。1990年代のHIVとの戦いで注目されたDNAワクチンがその期待に応えられなかったという悪評が、mRNAワクチンの実現可能性に対する認識に影響を与えました。mRNAはまた、壊れやすい分子であり、扱いにくく、大量生産には不向きであると広く認識されていました。この認識は、mRNAワクチンや治療方法の研究開発を追究するための学術的関心、資金提供、企業の支援を制限する役割を果たしました。

  • ワクチン研究分野の非収益性

製薬会社は次世代の治療法の研究を支援し、その議題を設定します。mRNAワクチンは、仮に実現可能であると考えられたとしても、ビジネスの観点からは魅力的なものではないとされていました。ワクチンというカテゴリーは、需要が予測不可能であり、利益率が通常低いため、製薬会社にあまり好まれません。これにより、mRNAワクチンを大規模に製造・提供するために研究室レベルでの発見を応用して実践的な方法を編み出すという産業界の努力は限定されたものとなりました。

  • 研究分野の専門化 vs. 起業家精神

カリコ博士とワイスマン博士の二人は、mRNAワクチンを現実のものにするために必要な主要な発見のいくつかを最初に行いました。両者とも優れた研究者でしたが、自らの仕事を普及させ商業化する任務にはあまり適していなかったようです。そのため、この重要な知見は限られた範囲の研究コミュニティにしか知られず、このブレークスルーを市場に持ち込むためのカリコ博士とワイスマン博士らによって行われた努力もあまり有効ではありませんでした。結果として、mRNAワクチン技術の開発が遅れることとなりました。


この論文は3つの部分で構成されています。第I部では、mRNAワクチンの科学的背景と技術の開発のタイムラインを簡単に概説します。第II部では、mRNAワクチンを実用的な免疫ツールとして実現するのを遅らせた構造的摩擦を明らかにします。第III部では、これらの摩擦に対処するための政策提言を提供します。最後に、さらなる探求のためのいくつかの領域を提案し、mRNAワクチンで学んだ教訓をより広く技術のブレークスルーの開発加速に適用できるか、という点について論じます。

 

第I部 – mRNAワクチン開発の簡潔な歴史

mRNAワクチンは、単一の技術的ブレークスルーの瞬間として理解されるべきではありません。むしろ、この技術は、mRNAがどのようにして体の病気と戦う能力を向上させるかを探求する数十年にわたる研究の集大成です。

さらに、mRNAワクチンが一般に認識されるようになったのは2020年から2021年にかけての新型コロナウイルスパンデミックに対処するツールとして登場したのがきっかけでしたが、基礎技術の開発の多くは、コロナウイルスを主なターゲットとしない研究者によって行われました。コロナウイルスへの応用は、考慮されていたとしてもおまけ程度のものでした。パンデミックは、mRNAワクチンを大規模に実用化するための重要な触媒となったかもしれませんが、この技術を可能にするために必要な多くの基礎的な発見は、がんなどの問題に対処するために何年も前に行われていました。

mRNA研究の長い歴史の中で、mRNAワクチンの利用可能性を加速させるための複数の機会が見逃されてきたことがわかります。このセクションではその歴史を簡潔に振り返り、重要な出来事について触れながら、mRNAワクチンがなぜ、どのようにして開発されたのかについて説明します。

HIVとの戦い

適応免疫系は、体が病気と戦う主要なメカニズムです。体の迅速な「第一線」防御システムである自然免疫系を補完する形で、適応免疫系は主要な病原体を認識し、それに対抗する抗体を展開するT細胞とB細胞を配備する役割を担っています。しかし、このシステムは、同様の病原体と戦った経験がない限り、比較的遅く動作します。

従来のワクチン開発のパラダイムは、弱毒化されたウイルスを免疫系に導入することでこのメカニズムを引き起こすことに依存しています。免疫系はこれらの弱毒化されたウイルスを容易に撃退し、将来的にウイルスの完全なバージョンと迅速に戦うために必要な経験を得ることができます。この基本的なメカニズムは、18世紀後半のエドワード・ジェンナーとベンジャミン・ジェスティによる天然痘ワクチンの研究から始まり、1950年代のジョナス・ソークとアルバート・サビンによるポリオとの戦いの研究を経て、数十年にわたってワクチン開発の指針となっていました。

しかし、1980年代から1990年代にかけてのHIVの台頭は、ワクチン開発のこの基本的なパラダイムを覆しました。まず、HIVは感染者の免疫系を著しく損傷するため、患者が弱毒化されたウイルスと戦うことすらできないのではないかと考えられました。第二に、HIVウイルスは急速に変異するため、ワクチン目的で弱毒化または不活化バージョンを培養しようとする試みが、ウイルスをさらに強毒化させる可能性があるという懸念を引き起こしました3

合成または「組換え」DNAは、これらの課題に対する有望な代替手段を提供しました。HIVウイルスの無害な断片的部分のみを生成するDNAを合成することで、このアプローチはウイルス自体を注射することに伴うリスクなしに適切な免疫系反応を引き起こすことができました。これらの「サブユニットタンパク質」ワクチンでは、選択されたDNAセグメントを酵母のような媒体に挿入します。酵母は、HIVウイルスの表面に存在する「エンベロープ」タンパク質など、目的のタンパク質を生成し、それが患者の体内に導入されます。

しかし、1990年代を通じて、ジェネンテック、マイクロジェネシス、カイロンなどの複数の企業によるサブユニットタンパク質ワクチンアプローチは失敗に終わりました。HIVの構造は絶え間なく変異するため、ウイルスのすべての潜在的な変異体を確実に識別し対抗する方法を免疫系に教えるためのエンベロープタンパク質の分離は困難でした4。しかし、このアプローチに基づいた研究は、後にノババックスやグラクソ・スミスクラインによって新型コロナウイルスパンデミックの際に製造されたワクチンの基盤として結実しました5

この期間中、製薬業界で有数の大企業であるメルクも、HIVと戦うためのメカニズムとしてDNAを使用する試みに参加しました。メルクのアプローチは、アデノウイルスとして知られる一般的なウイルスタイプを利用して、必要なDNAを体の細胞に直接運ぶものでした。そこから、DNAはHIVの構造タンパク質のセットを生成し、体のT細胞からより強力な反応を引き起こせるのではないか、と考えられていました。1998年にサルで行われたこれらの「ウイルスベクター」ワクチンの試験は有望であり、2004年にヒト臨床試験が行われました。

2007年に発表された臨床試験の結果は悲惨なものであり、メルクの候補ワクチンは効果がないことが示されました。中には、ワクチン受容者の一部で感染状況が悪化したことを示す証拠もありました。国立衛生研究所(NIH)によって実施された並行試験も同様の結果を示しました6, 7。これを受けて、メルクはこの試験とHIVワクチンプログラムを丸ごと閉鎖しました。

 

萎縮効果

HIVはワクチンを開発するための数十年にわたる研究のきっかけとなりました。しかし、1990年代から2000年代初頭にかけての研究者が経験した失敗と誤ったスタートは、資金提供と継続的な探求に対して大きな萎縮効果をもたらしました。

メルクが探求したウイルスベクターアプローチは、後にオックスフォード・アストラゼネカやジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)の新型コロナウイルスワクチンの基盤となりました8。しかし、この研究に取り組んだ研究者たちは、何年もの間懐疑的に見られていました。研究者のダン・バルーチとヤープ・グードスミットは、2000年代を通じてクルセル(後のJ&J)でHIVおよび呼吸器RSウイルスに対するアデノウイルスアプローチを探求し続けました。しかし、クルセルの経営陣からの否定的なフィードバックにより、グードスミットは経営陣に知られずに作業を行う必要があり、実験結果を「アッセイバリデーション」などの一般的なラベルでラボノートに隠しました9

HIVワクチン開発の失敗は、mRNAをワクチンの基盤として使用することへの関心も低下させました。細胞の通常の機能では、DNAは細胞の核内に存在します。mRNAはDNAからコピーされ、核外に送られ、細胞のさまざまな成分によって一連のタンパク質を生成するために使用される一時的な「設計図」として機能します。このmRNAの特徴は、DNAワクチンが依存していたプロセスをスキップして、核に入ることなく免疫反応に必要なタンパク質を生成する可能性を示しました10。mRNAを薬剤として使用するというアイデアは、1988年にソーク研究所の研究者ロバート・マローンによって提案されました11。1990年には、mRNAが直接タンパク質を生成するために使用できるということをジョン・ウルフと数人の共同研究者が発表しました12

それにもかかわらず、2010年にDARPAのADEPTプログラムを率いたダン・ワットエンドルフは、業界の専門家のほとんどはウイルスベクターおよびサブユニットタンパク質ワクチンでの苦い経験を踏まえてADEPTプログラムに懐疑的であったことを指摘しています13。ある記事の言葉を借りれば、それは「愚かな試み」と見なされていました14。初期のmRNA研究用試薬会社の1つを設立したマット・ウィンクラーは、「当時、RNAを注射してワクチンを作るというアイデアはあまりにも現実離れしたものだと考えていたので、そのアイデアの実現可能性に関して誰かに聞かれたら、私は嘲笑していたと思います」と述べています15

DNAがワクチンの基盤として期待できないなら、mRNAは輪をかけて期待できないと考える更なる理由がありました。mRNAは非常に壊れやすく、熱の存在下で分解しやすく、多くの一般的な酵素によって容易に破壊されます。これらの特徴は、実験室での作業を困難にし、大規模に生産する能力について疑問を投げかけました。

それにもかかわらず、1990年代から2000年代にかけて、いくつかの研究チームがmRNAを基にした治療法のビジョンを追究しました。有名な例として、ペンシルベニア大学の研究者であるカタリン・カリコとドリュー・ワイスマンが、HIVワクチンを作成するアプローチとしてmRNAの使用を調査しました。これにより、2000年にはmRNAがHIVの望ましいタンパク質を生成できることを示す出版物が発表され、2005年にはmRNAの成分であるウリジンを修飾することで、拒絶されることなく生細胞に導入できることが示されました16, 17。しかし、この研究に対する資金提供の提案はNIHや他の機関から拒否され、彼らの重要な2005年の論文は主要なジャーナルから「漸進的な改善に過ぎない」18として却下されました。カリコとワイスマンは彼らの発見を商業化するための十分な投資を得ることができず、ペンシルベニア大学によって要求されたライセンス料を支払うことができませんでした。彼らの特許は最終的に小さな実験機器会社であるセルスクリプトに30万ドルでライセンスされました19

他の研究チームもこの期間中に並行してmRNA治療法を追究しました。デューク大学の研究者であるエリ・ギルボアは、1996年にmRNAがマウスのがん腫瘍を治療するために使用できることを示す研究を発表しました。これらの画期的な結果にもかかわらず、デューク大学医学部の学部長からのさらなる資金提供は2005年に拒否されました。なぜなら、「mRNAを安定化させ、細胞に届ける方法に関する厄介な問題を考慮すれば、当時、mRNAに賭けることは危険な動きと見なされてた」からです20。しかし、この研究は、2008年にウグル・サヒンとオズレム・トゥレシによって設立されたビオンテックの設立に影響を与えました21。ビオンテックは後にファイザーと提携し、新型コロナウイルスのための最初のmRNAワクチンのいくつかを製造しました。

同様に、2010年にはルイジ・ウォーレンとデリック・ロッシが、mRNAを使用してヒトの皮膚細胞を胚性幹細胞に変換することができることを示す結果を発表しました。これはさまざまな医療処置にとって貴重な発見でした。この研究は後にモデルナの設立の基盤となり、mRNAを使用して体がさまざまな潜在的な治療法を自ら生成するメカニズムが初期段階では主に研究されていました22。モデルナは2013年に方向転換し、これらの技術を利用してワクチンを製造することに焦点を当て、mRNAを細胞に届けるための脂質カプセル化技術を大幅に改善しました23。モデルナも新型コロナウイルスのための初期のmRNAワクチンを展開しました。

新型コロナウイルスパンデミックの前夜には、商業的な企業がmRNAワクチンを積極的に追究していましたが、このアプローチに対する懐疑的な見方が依然として存在していました。ビオンテックとモデルナは共に財政的に疑わしい存在だと見なされていました。モデルナはその治療法に関する透明性の欠如で広く批判され、2016年のネイチャーバイオテクノロジーの記事では、モデルナとそのCEO、ステファン・バンセルがセラノスとエリザベス・ホームズと比較される形で言及されていました24。同様に、ビオンテックが何年もの運営にも関わらず市場に薬をもたらすことができていないことを投資家が懸念した結果、2019年にはビオンテックは資金不足に直面しました。同社はその年の10月に資金調達のためにIPOを行いましたが結果は低調で、当初の目標の半分強しか調達できませんでした25

 

新型コロナウイルスパンデミック

新型コロナウイルスパンデミックの到来時、mRNAワクチンは依然としてほとんど未検証の概念でした。実験室レベルでの有望な結果や人間への適用における初期の成功があったものの、技術の大規模な展開はまだ行われていませんでした。

新型コロナウイルスパンデミックは一刻を争う事態でしたが、これはウイルスと戦う政府にとってmRNAワクチンが魅力的な選択肢となるということも意味しました。従来のワクチン開発方法は遅く、弱毒化または不活化されたウイルスを数ヶ月にわたって大きな細胞培養槽で培養する必要があります。これに対して、mRNAは対象となる遺伝子から数時間で迅速に合成できます26。効果は未検証ではあったものの、mRNAのワクチン展開は従来の開発方法よりもはるかに速く行えると判断されました。

それでも、パンデミックの初期段階では、mRNAワクチンが新型コロナウイルスと戦うための最良の候補と見なされていたわけではありませんでした。オックスフォードのサラ・ギルバートとエイドリアン・ヒルが率いるチームによるウイルスベクターアプローチは、他の手法よりも成熟していたため、より有望と見なされていました。未検証のmRNAワクチンとは対照的に、オックスフォードアプローチはMERS、インフルエンザ、ジカウイルスなどの病気に対する実験試験で効果的で安全であることが示されていました27。オックスフォード・アストラゼネカワクチンの臨床試験結果が有害な副作用の可能性を示し、モデルナやビオンテックのワクチンよりも低い有効性を示すまで、mRNAは優れた選択肢と見なされていませんでした28

したがって、mRNAワクチンは新型コロナウイルスパンデミックと戦うためのいくつかの投機的な賭けの1つに過ぎませんでした。米国政府のオペレーション・ワープ・スピードは、ワクチン開発と展開を加速するために180億ドルを割り当て、モデルナを通じたmRNAワクチン開発およびオックスフォード・アストラゼネカチームのような代替アプローチの両方に支援を提供しました。

オペレーション・ワープ・スピードと世界中の政府によって開始された同様のプログラムは、2つの方法でmRNAワクチンの開発を加速しました。まず、ワクチンの購入に対する前払いの約束と研究助成金が、製造能力の大幅な拡大を支援しました。これは、モデルナのような大規模なワクチンを製造するインフラを欠いていたスタートアップにとって特に重要でした29。この資金はまた、技術的進歩を加速させるのにも役立ちました。大量のワクチン接種を迅速に提供する必要性があったため、冷却管理や質のコントロールといったmRNA研究を実用的なものへと移行するための多くの実践的な課題の解決が促進されました30

第二に、オペレーション・ワープ・スピードは通常の臨床試験を組み合わせて並行して実施することを可能にしました。重要なのは、臨床試験で安全性と有効性が証明される前にワクチン候補を製造することを企業に許可したことです31。これにより、ワクチンの承認と展開を遅らせる通常のボトルネックが解消されました32。この異常に加速されたプロセスは、パンデミックに対処するための様々な解決策が実際に実行可能かどうかを迅速に検証することにも役立ちました。mRNAワクチンは、パンデミックと戦うための未検証で投機的な選択肢と見なされていましたが、数ヶ月のうちに最も有望なアプローチだと明らかになりました。

最終的に、2020年12月13日に臨床試験以外で初めての新型コロナウイルスワクチンのアメリカ人への接種が、ファイザー/ビオンテックのワクチンを用いて行われました。米国では、モデルナとJ&Jのワクチンの承認もすぐに続きました。mRNA技術は、実用的なものとなり、その後の数年間で応用範囲が広がり続けています。モデルナは2022年に、マラリア、エボラ、デング熱などの懸念される病原体に対処するために技術を適用していると発表しました33。ビオンテックは新型コロナウイルスワクチンの収益を新しいプログラムに投資し、がん免疫療法や多発性硬化症の進展にmRNAを適用しています34, 35

 

第II部 – 構造的摩擦

mRNAワクチン開発のタイムラインは、新型コロナウイルスパンデミックによって世界的な需要が発生する何年も前の段階で、mRNAワクチン技術の開発、実用化がなされる可能性があったことを示唆しています。mRNAを薬剤として使用する可能性は1988年には認識されており、2000年代中頃からは技術の実用的な応用を示す画期的な事例が発表されていました。

mRNAワクチンに必要な基礎的な進歩が、広範な研究コミュニティの中での相当な懐疑論や公的および民間の機関からの限られた資金提供にもかかわらず続けられていたことは示唆的です。mRNAワクチンの獲得を妨げる根本的な障害はなく、資源の問題が主な障害でした。オペレーション・ワープ・スピードのようなイニシアチブを通じて資金が急増すると、mRNAワクチンは急速に実用化され、他の競合する代替手段に対する利点が明らかになりました。

どのような要因が異なっていれば、mRNAワクチンがもっと早く利用可能になっていたのでしょうか。このセクションでは、第I部で説明したタイムラインを検討し、進展を妨げた主な摩擦を診断します。

 

mRNAの実現可能性の認識

2000年代および2010年代におけるmRNA研究の進展は遅く、その理由の一部は成功の可能性が極めて低いと広く認識されていたためです。これは的外れな評価とはなりましたが、当時知られていたことを加味すれば合理的な判断でした。HIVワクチンの構築におけるmRNAの関連アプローチは、長年にわたり期待外れの結果をもたらしました。mRNAの壊れやすさは、開発のあらゆる段階で実用化への課題となりました。mRNAは実験室で扱いにくく、体内での取り込みを確保する明確な方法がなく、大規模な製造には不向きであると考えられていました。

パンデミックの最中でさえ、業界の専門家はmRNAワクチンには未来がないと考えていたほどには、mRNAワクチンの実用性は疑わしいとされていました。ホワイトハウスへの資金配分に関する提言を準備していた経済学者たちは、mRNAの役割を想定した投資計画は夢想的であるとのフィードバックを一部から受けていました36

この見解はすべての人に共有されたわけではなく、少数の研究者は2000年代および2010年代を通じてmRNA技術を推進し続けました。しかし、mRNAワクチンに対する広範な否定的な認識は、進展を遅らせる役割を果たした可能性があります。mRNAワクチンの真の実現可能性が知られていたならば、科学資金提供者はより多くの資金をmRNAワクチン研究に割り当てていたでしょう。同様に、研究コミュニティ全体でmRNAワクチンの実用的な開発における障害を探究し解決することは二の次になっていました。モデルナやビオンテックのような企業は最終的にmRNAワクチンを完成させ市場に投入しましたが、2020年のパンデミック前夜におけるこれら企業の財政的な危うさを考えれば、世界的なパンデミックがなければこの技術が現実となるまでにさらに多くの年数がかかっていたでしょう。

mRNAワクチンの実現可能性が低いと認識されていたために、開発を妨げる複合的な不確実性も生じました。限られた資金と研究努力しか投入されなかったため、mRNA技術全般、特にmRNAワクチンの進展は比較的遅いものとなりました。この遅い進展のために、モデルナやビオンテックの商業的実現可能性は常に懐疑の目を向けられていました。しかし、のちに新型コロナウイルスパンデミック間に技術の進展が加速したことからも分かるように、進展が遅かったのは技術そのものに欠陥があったからではなく、利用できる資源が限られていたからでした。

実現可能性が低いと認識されていたために、一種の認識論的不確実性も生じました。mRNAワクチンが実際に機能するかどうか、他の代替手段と比較してどうかについてのデータを得ることがそもそも難しかったのです。開発が遅いということは、mRNAワクチンの臨床試験が少ないことを意味し、モデルナやビオンテックはそのアプローチの強みに関する明確な証拠を欠いていました。データの不足は、さらなる開発のために資源を求める理由付けを困難にしました。オックスフォード・アストラゼネカチームが探求したウイルスベクター法のような比較的効果が検証されていたアプローチは、パンデミックの間により有望と見なされました。臨床試験がオペレーション・ワープ・スピードのようなプログラムを通じて加速されるまで、mRNAが機能し、他のより検証が進んでいるワクチンアプローチと同等の実現可能性があるということが明らかになることはありませんでした。

mRNAワクチンの実現可能性に対して資金提供者および研究者の多くが否定的に考えていたことは、累積的に見て大きな影響を与えたと思われますが、その測定は困難です。仮にmRNAが一般的により有望と見なされていたシナリオを考えれば、そこでは資金と研究努力がより多く割り当てられていたでしょう。最終的な結果として、さまざまな技術的障害の解決がより迅速に行われ、臨床試験に到達するまでの期間が短縮されたことでしょう。これらの両方が、mRNAワクチンをより早く実用化するのに役立ったでしょう。

 

ワクチン研究分野の非収益性

mRNAワクチン開発の主要企業がモデルナやビオンテックのようなスタートアップであり、確立された製薬会社でなかったのは偶然ではありません。モデルナはパンデミック前にアストラゼネカとの早期のパートナーシップを築くことができ、ビオンテックはファイザーと提携して新型コロナウイルスワクチンを展開しましたが、感染症に対するワクチンは伝統的にトップの製薬会社にとって主要な収益源ではありません。

これにはいくつかの理由があります。ワクチンの開発には2億ドルから9億ドルの費用がかかり、臨床試験をパスする確率は6-11%に過ぎません37。ワクチンの開発には非常に長い時間がかかり、平均的なワクチンの開発タイムラインは10.71年です38。新型コロナウイルス以前の最速のワクチン開発は、1967年にメルクが開発したおたふくかぜワクチンで、4年かかりました39

利益も非常に不確実です。感染症は流行に左右されるため、製薬会社が多くの資源を投資してもワクチンが実用可能になるころには市場が消えてしまっている可能性があります。さらに、多くの感染症は貧しい国々により大きな影響を与えるため、低価格化への政治的圧力を生み出し、利益機会の規模が限定されます40。新型コロナウイルスのパンデミックは、ワクチンの市場が確実に保証されているという点でユニークな状況でした。ウイルスは世界中に広がりつつあった上に、政府がワクチンの大量購入を事前に約束することを厭わなかったからです。

ワクチンの投資に対して市場が与える影響力は無視できません。パンデミックの初期段階では、一部の大手製薬会社は新型コロナウイルスワクチンの開発への投資を躊躇しました。メルクは最終的に新型コロナウイルスワクチン開発を優先事項としないことを決定しましたが、この決定に至った理由の一つとして、以前のエボラに対する高額のワクチン開発の取り組みが2014年の流行が収束した後にしか承認を得られなかった、という事実があります。幹部たちは新型コロナウイルスも同様に消えるかもしれないと感じ、研究者や財政資源をこの問題に移すことは賢明でないと考えました41。モデルナやビオンテックでさえ、当初はワクチン製造を目指していませんでした。二企業は最初、mRNAを使用して広範な治療法を開発する方法にフォーカスしていました42

要するに、mRNAワクチン開発を妨げる懐疑論と、広くワクチンへの投資を阻む市場メカニズムとが複合的に影響していました。研究者や資金提供者がmRNAワクチンをより好意的に見ていたとしても、技術を市場に投入することに焦点を当てた企業の数は限られていたでしょう。広範な研究分野の収益性が望めないと見なされる場合、パラダイムシフトをもたらす研究は商業化されないかもしれません。

 

研究分野の専門化 vs. 起業家精神

カタリン・カリコとドリュー・ワイスマンの研究チームは、mRNAが細胞内に導入できることを示す基礎的な成果を上げたことで称賛されており、その評価は全く正当なものです。しかし、第I部で述べたように、カリコとワイスマンと同時期に同様の問題を検討していた多くの研究グループが存在し、彼らはカリコとワイスマンよりも多くの資源にアクセスしていました。別のチームがウリジンに関する発見を行い、mRNAワクチン開発の主要な障害を解決する可能性もありました。

結果的に、この発見を最初に行ったのはカリコとワイスマンでした。二人は優れた研究者でしたが、自らの仕事を普及させ、資金を調達することにはあまり適していなかったようです。ある近しい同僚はカリコについて「間違いなく優秀ですが、彼女は人々につっかかるところがあり、そのために周囲からはあまり良くは思われていませんでした。カティは厄介な存在でした。他人からの評価を全く気にしていなかったのです」と述べています43。ワイスマンについては「仕事場での噂話や雑談、小話をしませんでした。笑うどころか、口角を上げているところすらほとんど見たことがありません。写真撮影のときでも、です。いつも真剣な表情をしていたので、不快に思っていた人もいるのではないでしょうか」と述べています44。この要因は、mRNAワクチンの実用的なアプローチへの進展を2つの方法で遅らせた可能性があります。

まず、カリコとワイスマンの仕事は、mRNAの治療応用に特化した研究者コミュニティ内でも一般的な知識にはなりませんでした。モデルナの基礎となる研究を行ったルイジ・ウォーレンとデリック・ロッシは、2007年から2008年にかけてハーバード大学医学大学院でmRNAを使用して細胞を再プログラムする方法を中心に研究していました。ウォーレンは、mRNAを細胞に拒絶されずに導入するという課題に直面していましたが、これはカリコとワイスマンが数年前に取り組み解決した問題と同じでした。ウォーレンは「プロジェクトをあきらめる寸前」でしたが、近くのラボの助教授からカリコとワイスマンの仕事に関して偶然話を聞いたことで、研究は再び軌道に乗りました45。2005年の論文の発表後数年間で、カリコとワイスマンはその成果について話すための招待を2回しか受けませんでした46。もし二人が結果をより広く普及させることに成功していたなら、他の研究者がmRNAワクチンの進展をより早く進めることができたかもしれません。

第二に、カリコとワイスマンは知的財産に関する商業的な条件を効果的に交渉できず、彼らのブレークスルーを商業化する機会を失いました。ペンシルベニア大学はカリコとワイスマンの研究を通じて提出された特許を所有し、最終的にその特許のライセンスに関する決定を行いました。カリコとワイスマンは立ち上げた短命のスタートアップRNARxのために自身の発見のライセンスを取得しようと何年もペンシルベニア大学と交渉しましたが、成功しませんでした47。この期間中、RNARxはNIHからの限られた小規模ビジネス資金を使い果たし、最終的に2009年に閉鎖されました48。最終的にmRNA特許の独占ライセンスを取得したセルスクリプトは、カリコ自身がペンシルベニア大学に紹介しました49

他の研究者はこのような困難に直面しませんでした。カリコとワイスマンの研究に基づく幹細胞研究を行ったロッシの仕事は、2010年のタイム誌で「トップテン医療ブレークスルー」の1つとして宣言されました50。モデルナは2010年に設立され、2013年にはアストラゼネカから2億4000万ドルを調達する薬剤開発パートナーシップを結びました51

mRNAワクチンへの進展が遅れたのは、重要なブレークスルーを行った研究者が知識を普及させ商業化する起業家的な仕事で失敗したためでした。カリコとワイスマンは自らの発見をすぐに商業化するための資本の調達、ライセンスの実行ができませんでした。二人の論文は類似する問題に取り組む研究者の目に入るまでに時間がかかりました。いずれの場合でも、重要な進展が数年間にわたり研究者や業界で採用されず、使用されませんでした。

 

学術的なブレークスルーはどのくらいの速さで広がるのか?

主要な論文それぞれに関して、発表されてから毎年何件の引用がなされたかを示したグラフ。カリコとワイズマン(K&W)の2000年および2005年の論文は、ロッシの2010年の論文と比較して広がるのに非常に長い時間がかかりました。

 

第III部 – 提言

mRNAワクチン開発のタイムラインは、進展が加速される可能性があった多くの領域を明らかにしています。研究者と資金提供者は、mRNAのワクチンプラットフォームとしての真の実現可能性を誤って判断し、実験や技術的課題の克服に対する投資を十分に行いませんでした。主要な製薬会社はワクチン開発を支援するインセンティブが限られており、技術を市場に投入する企業の数が絞られていました。最後に、mRNAワクチンを可能にする重要なブレークスルーを達成した科学者たちは優れた研究者でしたが、自らの仕事を普及させ商業化することには成功しませんでした。これにより、重要な知識の普及が制限され、発見者自身による技術の市場持ち込みは失敗に終わりました。

つまり、私たちはmRNAワクチンとその治療法の恩恵を何年も前から享受できていたかもしれないのです。もしそうであるなら、この展開を加速させるためにどのようなことができたのでしょうか?

mRNAにまつわる物語で見られたハードルの中には複雑で多面的な様相を呈していたものもあるため、この技術が早期に利用可能になることを確実にする「特効薬」のような政策介入は存在しなかったでしょう。それでも、3つの制度的変更が実施されれば、mRNAワクチンが早期に開発される可能性が高まったかもしれません。

 

介入1:研究資金のバリエーションを増やす

1990年代および2000年代にmRNAワクチン研究に割り当てられた助成金やその他の資金は限定的でしたが、これはmRNAワクチンが現実的でないと広く認識されていたことが一因です。mRNAの壊れやすさは、ワクチンプラットフォームとしての候補としてはあり得ないとされ、HIVに対する関連アプローチの歴史も失望的でした。

mRNAに対する懐疑的な立場は当時の事実を考慮すると合理的な科学的評価であったかもしれません。しかし、当時の記録を紐解けば、この悲観論が他のアプローチとの理論的な類推に基づいており、決定的な科学的失敗に基づいたものではないことが分かります。mRNAワクチンが早期に利用可能であれば生じていたであろう独自の高い社会的影響を考えると、さらなる探求が行われなかったことは大きな機会損失となりました。

この問題を緩和するための1つの制度改革は、資金提供者がこの種の科学的コンセンサスに対立する形で、より分散が大きい「異端」の賭けをすることを奨励するメカニズムを使用することです。例えば、審査員が研究提案を強く支持している場合、他の審査員のコンセンサスに反してプロジェクトに資金提供できる「ゴールデンチケット」メカニズムが使えるかもしれません52。同様に、高いインパクトを生み出す可能性があるものの資金提供と研究者活動が減少している領域に対して「ラストチャンス」資金を計画的に提供するプログラムを行ってもよいかもしれません53。mRNAのケースでも見られるように、自然なリスク回避行動として研究者は目立った失敗に直面したときに問題を早期に放棄することがありますが、これらの手法はこのリスク回避行動を打ち消すことができるかもしれません。これらのメカニズムは、専門家の判断が類似の問題への類推に基づいており、技術が実現可能であれば大きな社会的影響を持つ場合に特に適用可能かもしれません。

mRNA研究が広く懐疑的に見られていた中で、それに反してmRNA研究に資金提供をした組織に関して調べると、上述したアプローチの利点がより明確になります。これらの組織がそのような資金提供を行ったのは、一つにはより投機的で高リスクの探求を優先する自由があったからです。具体的な理由はさまざまです。2010年代にmRNA研究に資金提供をしたDARPA ADEPTプログラムを率いたダン・ワットエンドルフ曰く、DARPAがmRNA研究を支援したのは、彼のようなマネージャーにプログラムを自由に指揮させるという組織規範があったからです54

ビル&メリンダ・ゲイツ財団も、2016年にモデルナに2,000万ドルの助成金を提供し55、2019年にはビオンテックに5,500万ドルを提供する56など、mRNAワクチンの早期支援者でした。これらの投資が行われた背景には、ワクチン技術を進歩させることに対するゲイツの個人的な関心もありましたが、財団が関連分野で有望だが見過ごされていた方法を見つけることを優先していたという事情もありました。ビオンテックは、がんに対処するためのmRNA治療薬の開発を開始していましたが、次のような理由でゲイツ財団からのサポートを受けました:「(ゲイツ)財団は、感染症と戦うのに役立つ可能性がある『おとなり』の科学分野をよく調査していました。スチュアート(ゲイツ財団のディレクター)は『トレンドが何か、何が変わりつつあるか、そして最先端の人々は誰かを探るために多くのホライゾンスキャニングを行っていました。そしてビオンテックは明らかに注目すべき存在でした』と述べています。」57

 

介入2:科学市場における市場の失敗に対処する

主要な製薬会社は、mRNAワクチンの開発と展開を加速させるのに適した立場にありました。これらの会社は、ワクチン開発に必要な優れた研究者、財政資源、および技術を実用的な製品に変えるための実践的な大量生産のノウハウを持っていました。

しかし、製薬会社はワクチン開発の道を切り開くことのできる立場であったにもかかわらず、それを行いませんでした。ワクチン生産と承認にまつわる高いリスク、およびワクチン市場の不安定さのために、mRNAアプローチの商業化に積極的に投資するインセンティブが低かったのです。その結果、技術の市場への登場はオペレーション・ワープ・スピードによる膨大な資金提供を待つことになりました。

もちろん、市場インセンティブによって高い影響力を持つ科学的革新のペースが遅れるたびに、オペレーション・ワープ・スピードの規模の緊急プログラムを必要とするのは非現実的です。しかし、mRNAの物語を振り返れば、政策立案者と政府機関は企業が投資を控えがちなリスクの高い領域への投資を奨励する科学政策にフォーカスすることが有効である、ということが分かります58

ワクチン市場の規模拡大を阻害する複雑な問題を解決するために介入を提案している研究は広く存在します59。その中でも、mRNAワクチンを現実のものにする役割を果たした2つの介入は特に注目に値します。

まず、オペレーション・ワープ・スピードでは、FDAが臨床試験を並行して適応的に実施することを許可し、「エビデンスが蓄積される中で新しい治療法が次々に現れ、有効でない治療法は次々に消えていきました」60。これにより、企業と公衆衛生当局はどの治療法が最も効果的であるかをはるかに迅速に理解することができました。これは、企業がアプローチを迅速に実験し、実行可能性を評価し、競合他社と比較することを可能にする共通の「テストベッド」を政府が設計する価値を示しています。これにより、特定の研究分野への投資を減少させる不確実性の低下、およびその不確実性を低下させるためのコストの低下が見込めるかもしれません。

第二に、政府は大きなインパクトがある領域で、賭けの大部分が失敗することを前提にポートフォリオ全体に資金を提供することを選択できます。オペレーション・ワープ・スピードでは、モデルナやビオンテックが製造するmRNAワクチンが最良の結果をもたらすことが事前に判明していたわけではありません。代わりに、「安全性、有効性、産業製造の可能性、スケジュール要因による失敗のリスクを軽減する」61, 62ために、4つの異なるプラットフォーム技術を同時に提供する保証を企業に与えました。これは公衆衛生の緊急事態であるという認識のもと強く推し進められた施策でしたが、不確実な市場需要のために企業が従来の方法論に固執し、より実験的なアプローチの探求をしない傾向にある場合には、このようなポートフォリオアプローチがよいかもしれません。

 

介入3:研究起業家精神の支援

誰が重要な発見をするか、どのような状況でそれを行うかを正確に予測するのは難しいことです。科学政策の1つの目的は、発見者が自身の発見を宣伝し商業化する立場にない場合でも、社会が迅速にそのブレークスルーを特定し、その恩恵を受けられるようにすることであるべきです。

カリコとワイスマンのケースは示唆に富んでいます。研究者たちは特定の起業家的能力を持っておらず、自らの研究を商業化することができませんでした。その結果、その重要な知識はすぐに活用されることはなく、MITや他の場所のより良好な立場にある研究者にゆっくりと広がるのを待つ必要がありました。これにより、mRNAワクチンの利用が可能になる時期が遅れました。

とはいえ、研究者は研究に集中すべきです。科学的および技術的進歩を最大化するためには、カリコやワイスマンのような研究者が科学的発見に伴う困難な仕事に完全に専念できるようにする必要があるかもしれません。新たな科学的知識が次々と開拓される中で、科学的タスクの専門化と科学者チームの規模拡大が進んでいることが分かっています63。この現象は続く可能性が高いため、発見をビジネスに変えたり他者と共有したりする経営的なタスクに対して研究者自身があまり関心を持たない場合でも、重要な研究結果が世に広がりやすくなるような仕組みを探すことに政策立案者は注力すべきです。

この点で特に効果的となる可能性がある介入が2つあります。まず、大学や他の研究機関は、研究の促進、投機的技術に関する資金調達、そして新興科学を中心にビジネスを構築することに特化した「科学オペレーター」という新しい職を育成するために協力すべきです。これらオペレーターは研究者やラボと提携し、研究者の仕事を加速させる役割を果たし、最高執行責任者 (COO) のような役割を果たし、初期の研究を持続可能な現実に変えるための実務を担当します。これは、技術を「現実の世界」に移行するのを支援することに特化した専任の技術市場アドバイザーを設置するARPA-Eや、ARPA-Hのプロジェクトアクセラレータ移転イノベーションオフィス (PATIO) などの機関が取っている戦略を拡大するものです64

第二に、より柔軟な大学技術移転プロセスが有益であるかもしれません。カリコとワイスマンのスタートアップRNARxの失敗の一因は、会社の経営が成立しなくなるほど高い前払いライセンス料をペンシルベニア大学が要求したことにあるようです65。これは、ペンシルベニア大学が短期的な収益化を要求することで重要なイノベーションを阻害したことを示唆しています。ペンシルベニア大学の交渉姿勢はおそらく、大学で純利益を上げている技術移転オフィス(TTO)が全体の5%にも満たない上に、早期に利益を上げるよう要求する圧力に直面しているという事実によるものでしょう66。TTOがリスクを厭わず、特定の研究者や特許に合わせたライセンス契約を作成できるよう柔軟性を高めることで、より投機的なイノベーションが市場に出ることが可能になるかもしれません。

 

教訓

ここ数十年のmRNAワクチン開発は、発見や開発における根本的な制約よりも、イノベーションのパイプラインにおける摩擦によって主要な技術進歩が大きく遅れた顕著な事例です。最終的にmRNAワクチンは大きな効果をもたらしましたが、この遅れには代償が伴いました。世界的なパンデミックの発生後にようやくmRNAワクチンを市場に投入できたということには、パンデミック中およびその前に失われた人命という形で計測できるコストが伴いました。

しかし、この論文で特定された進展への摩擦は、mRNAワクチンの事例に特有のものではありません。実現可能性が低いという認識、商業的なインセンティブのなさ、および研究者の起業家的リソースへのアクセスのばらつきは、必ずしも同じ形ではないにしても分野や産業全体で見られます。例えば、ニューラルネットワークでも非常に類似したパターンを見出すことが可能です。初期の目立った失敗によって評判が傷つけられた後、数十年後にコンピュータビジョンで劇的なブレークスルーを生み出すことで徐々に再び注目を集めるという流れがありました。

こういった摩擦が様々な局面で観察されるということは、大きなインパクトを持つ他の多くのイノベーションが同様の問題によって現在遅れている可能性があることを示唆しています。科学的進展を遅らせる構造的問題のうち最も頻繁に観察されるものの分類を行うために、研究分野全体で主要なイノベーションのタイムラインを比較する研究を実施することは有意義でしょう。


これらの摩擦の共通性は、この論文で特定された提言が一般的に適用可能であることも示唆しています。科学のエコシステムが見落とされがちな機会から利益を得る確率を高めるような介入を提供するメタ科学的な「戦略指南書」が存在するかもしれません。

この分析は、そのような指南書の種となるでしょう。科学資金のバリエーションを増やし、科学市場の市場の失敗に対処するために政府の介入を利用し、研究起業家精神を支援することは、振り返ってみれば、mRNAワクチンの開発を加速させたであろう具体的な変更です。これらの介入を今日行うことで、次の技術をより早く手に入れることができるかもしれません。

 

謝辞

著者は、この論文の初期の草稿に対するフィードバックを提供してくれたアリエル・ドスーザ、ジャッシー・パヌ、サンティ・ルイズ、ケイレブ・ワトニーに感謝の意を表します。また、コメントおよびインタビューの機会を提供してくれたクリストファー・スナイダーとダン・ワットエンドルフにも感謝の意を表します。データ分析とビジュアライゼーションのサポートを提供してくれたマット・エッシェにも感謝の意を表します。


1: Prashant Nair, “QnAs with Kaitlin Karikó," PNAS (Dec 13, 2021).

2: 一つの推計として、Markus B. Bjoerkheim and Alex Tabarrok, “Covid in the nursing homes: the US experience," Oxford Review of Economic Policy (Dec 14, 2022)では、介護施設で「五週間早くワクチン接種を始めていただけで14,000人ほどの命が救われ、また十週間早く始めていれば40,000人の命が救われていたであろう」と推計しています。

3: Gregory Zuckerman, A Shot To Save The World (Portfolio, 2021), 9.

4: 同上, 28.

5: 同上, 26.

6: Enrico Iaccino, et al., “The aftermath of Merck’s HIV vaccine trial," Retrovirology (Jul 2, 2008).

7: Rafick-Pierre Sekaly, “The failed HIV Merck vaccine study: a step back or a launching point for future vaccine development?," Journal of Experimental Medicine (Jan 21, 2008).

8: Jeffrey Harris, “The repeated setbacks of HIV vaccine development laid the groundwork for SARS-COV-2 vaccines," Health Policy Technology (Mar 21, 2022)において、この歴史がより詳細に述べられている。

9: Zuckerman, 44.

10: Ugur Sahin et al., “mRNA-based therapeutics — developing a new class of drugs," Nature (Sept 19, 2014).

11: Elie Dolgin, “The Tangled History of mRNA Vaccines," Nature (Sept 16, 2021).

12: Jon Wolff et al., “Direct Gene Transfer into Mouse Muscle in Vivo,” Science (Mar 23, 1990).

13: ダン・ワットエンドルフとの個人的なインタビュー (2023年8月15日)より。

14: Paul Sonne, “How a secretive Pentagon agency seeded the ground for a rapid coronavirus cure," Washington Post (Jul 30, 2020).

15: Dolgin.

16: Drew Weissman et al., “HIV gag mRNA transfection of dendritic cells (DC) delivers encoded antigen to MHC class I and II molecules, causes DC maturation, and induces a potent human in vitro primary immune response," Journal of Immunology (Oct 15, 2000).

17: Katalin Karikó et al., “Suppression of RNA recognition by Toll-like receptors," Immunity (Aug 2005).

18: Nicole Neuman, “Conversations: Persistent Progress," Cell (Oct 14, 2021).

19: Zuckerman, 62.

20: Dolgin.

21: Zuckerman, 130-31.

22: Kimberly Hassett et al, “Optimization of Lipid Nanoparticles for Intramuscular Administration of mRNA Vaccines," Mol. Ther. Nucleic Acids (Apr 15, 2019).

23: “Research not fit to print," Nature Biotechnology (Feb 5, 2016).

24: Rebecca Spalding and Joshua Franklin, “Germany’s BioNTech raises $150 million in smaller-than-planning U.S. IPO amid market volatility," Reuters (Oct 10, 2019). 

25: Nair.

26: "Oxford University is leading in the vaccine race," The Economist (Jul 2, 2020)を参照。オックスフォード大の研究者のアプローチを「新型コロナウイルスの世界初のワクチンを生み出す可能性が最も高い候補」として紹介している。

27: Zuckerman, 299-300.

28: GAO, “Operation Warp Speed: Accelerated COVID-19 Vaccine Development Status and Efforts to Address Manufacturing Challenges,” Feb 11, 2021.

29: Sarah Gilbert and Catherine Green, Vaxxers (2021), Ch. 6.

30: See Arielle D’Souza, “How to Reuse the Operation Warp Speed Model," Institute for Progress, Feb 7, 2023.

31: Stuart A. Thompson, “How Long Will a Vaccine Really Take?," New York Times (Apr 30, 2020)では、臨床試験が加速していった様子がビジュアライズされている。

32: Julie Steenhuysen and Michael Erman, “Moderna plots vaccines against 15 pathogens with future pandemic potential," Reuters (Mar 7, 2022).

33: Nature Biotechnology, “UK, BioNTech test mRNA against cancer,” (Feb 15, 2023).

34: Christina Krienke et al., “A noninflammatory mRNA vaccine for treatment of experimental autoimmune encephalomyelitis," Science (Jan 8, 2021).

35: Tim Hwang, “The Frontier of Scientific Plausibility," Macroscience (Aug 25, 2023). 

36: Jonathan T. Vu et al., “Financing Vaccines for Global Health Security," NBER Working Paper No. 277212 (May 2020).

37: Esther S. Pronker et al., “Risk in Vaccine Research and Development Quantified," PLoS One (Mar 20, 2013).

38: Zuckerman, 259.

39: Zulfigar A. Bhutta et al., “Global burden, distribution, and interventions for infectious diseases of poverty," Infect Dis. Poverty (Jul 31, 2014).

40: Zuckerman, 258-60.

41: Joe Miller et al., The Vaccine (St. Martin’s Press, 2022), 23; Peter Loftus, The Messenger (Harvard Business Review Press, 2022), 32-33.

42: Zuckerman, 71.

43: 同上, 76.

44: Zuckerman, 95-96.

45: Karikó, 264.

46: Karikó, 274.

47: Id., 274-5.

48: Karikó, 274.

49: Derrick J. Rossi, Harvard Stem Cell Institute.

50: Andrew Pollack, “AstraZeneca Makes a Bet on an Untested Technique," New York Times (Mar 21, 2013).

51: Dalmeet Singh Chawla, “‘Golden tickets’ on the cards for NSF grant reviewers," Nature (Feb 24, 2023).

52: Tim Hwang, “Funding Against The Tide," Macroscience (Sept 6, 2023).

53: ダン・ワットエンドルフとの個人的なインタビュー (2023年8月15日)より。

54: Loftus, 81.

55: BioNTech, “BioNTech Announces New Collaboration to Develop HIV and Tuberculosis Programs” (Sept 4, 2019).

56: Miller, 25.

57: Tim Hwang and Caleb Watney, “How DARPA Can Proactively Shape Emerging Technologies," Institute for Progress, Jun 15, 2023 において、ここでの戦略的なアプローチについて詳細に論じている。

58: これに関連する文献の例として、 Scott Duke Kominers and Alex Tabarrok, “Vaccines and the Covid-19 pandemic: lessons from failure and success," Oxford Review of Econ Policy (Dec 14, 2022); Qiwei Claire Xue and Lis Larrimore Ouellette, “Innovation policy and the market for vaccines," Journal of Law and the Biosciences (May 18, 2020); Government Accountability Office, “Vaccine Development: Capabilities and Challenges for Addressing Infectious Diseases,” Nov 16, 2021; Joshua Monrad et al., “Promoting versatile vaccine development for emerging pandemics," NPJ Vaccines (Feb 11, 2021).

59: Kominers and Tabarrok.

60: Moncef Slaoui and Matthew Hepburn, “Developing Safe and Effective Covid Vaccines–Operation Warp Speed’s Strategy and Approach," New England Journal of Medicine (Oct 29, 2020).

61: Government Accountability Office, “Operation Warp Speed: Accelerated COVID-19 Vaccine Development Status and Efforts to Address Manufacturing Challenges,” Feb 2021.

62: Benjamin F. Jones, “The Burden of Knowledge and the “Death of the Renaissance Man”: Is Innovation Getting Harder?," The Review of Economic Studies, Volume 76, Issue 1 (Jan 2009); Stefan Wuchty, Benjamin F. Jones, and Brian Uzz, “The Increasing Dominance of Teams in Production of Knowledge” Science, Volume 316, Number 5827 (May 2007).

63: ARPA-E Tech-to-Market Advisors; ARPA-H, Project Accelerator Transition Innovation Office (PATIO); Jassi Pannu et al., “ARPA-H Should Zero In on Pandemic Prevention," Issues in Science and Technology (Summer 2023) (パンデミック防止の観点から技術移転の重要性について議論している。)

64: Zuckerman, 82.

65: “As IPO market booms, should universities be managing their equity stakes?," Technology Transfer Tactics (September 2015); David Mowery, “Plus ca change: Industrial R&D in the ‘third industrial revolution’," Industrial and Corporate Change (Jan 12, 2009); Bhaven N. Sampat, “Patenting and US academic research in the 20th century: The world before and after Bayh-Dole," Research Policy (2006) (「コストを考慮に入れると、アメリカの研究大学の大部分は特許とライセンス活動で資金を失っている可能性が高い」と述べている。)

66: Stuart Russell and Peter Norvig, Artificial Intelligence: A Modern Approach (4th ed.,Prentice Hall, 2020), 17-26.

 

この記事の公開にあたり、Institute for Progressから記事の翻訳・公開の許可を個別に取得しています。
翻訳:渡部(PEPインターン)
監修:野澤