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国際政治学者たちの米中競争—佐橋亮 東大准教授が語る研究者と政策過程(前編)  

シリーズ「政策起業家Retrospect & Prospect」第5回

シリーズ「政策起業家Retrospect&Prospect」では、日本社会で、政策にかかわるプロフェッショナル、「政策起業家」にお話しを伺いながら、令和日本の政策・社会課題解決と、政策人材のキャリアをとりまく課題と展望を読者の皆さんと一緒に考えていきます。

連載5回目となる今回は、佐橋亮 東京大学東洋文化研究所 准教授にお話を伺います。佐橋先生は国際政治学、とくにアメリカと東アジア、米中関係、アジア太平洋の安全保障秩序と制度がご専門で、日本国際交流センター客員研究員も兼務してパブリックディプロマシーにも携わってきました。2019年9月9日の政策起業力シンポジウムにもご登壇いただいた佐橋准教授に、米中両国が伯仲する中での米国の首都ワシントンにおける対中戦略・政策形成の姿や、日本のパブリックディプロマシー、更にはそこでの研究者の役割と限界についてお話を伺いました。

プロフィール

佐橋亮 東京大学東洋文化研究所准教授

1978年、東京都生まれ。イリノイ大学政治学科留学を経て、国際基督教大学教養学部卒。東京大学大学院博士課程修了、博士(法学)。専攻は国際政治学、とくにアメリカと東アジア、米中関係、アジア太平洋の安全保障秩序と制度。オーストラリア国立大学博士研究員、東京大学特任助教、神奈川大学准教授、教授を経て2019年度より現職。日本国際交流センター客員研究員等を兼ねる。スタンフォード大学アジア太平洋研究センター客員准教授、ジャーマンマーシャルファンド・東京財団連携研究員、参議院客員調査員などを歴任。著書に『共存の模索 アメリカと「2つの中国」の冷戦史』(勁草書房)。神奈川大学学術褒賞、日本台湾学会賞など受賞。

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研究者としての立志:ある論文との出会いと素敵な「勘違い」

-職業研究者になろうと思ったきっかけ、また国際政治学、米中関係、東アジアを専門とするに至った経緯についてお聞かせください。

国際政治に興味を持った元々の理由は緒方貞子さんに代表されるような90年代の国際貢献ブームの影響です。高校2年生のときに読んだ本で開発問題・世界の食料問題に関心を持ち、ICU(国際基督教大学)の国際関係学科に進学しました。その後大国政治やアメリカ外交というテーマに関心が移ったのは、学部3年次のアメリカ留学から戻った後に起きた9.11同時多発テロ事件と、アメリカのアフガニスタン侵攻でした。アメリカがテロとの戦いの名の下で大規模な戦争になだれ込み、同盟もそれに伴い動かされていく状況に大きな衝撃を受け、国際政治をより深く勉強しなければならないと思うに至りました。

ただ、職業研究者を志すに至るまでには、かなり紆余曲折があったと思います。大学4年から修士1年の時点で、外交官、政治家の政策スタッフ、更には研究者という3つの選択肢に絞り込んでいましたが、最初は実務の世界に心が傾いていました。

研究者の世界に関心を持ったきっかけは、修士2年に上がる頃、International Securityという雑誌に載っていたとある英語論文との出会いです。その論文は中国が1964年10月16日に初の核実験を実施するまで、アメリカが中国核施設への破壊工作を計画していたことを緻密に実証した論文でした。それが非常に興味深く、素晴らしい学術論文を残せば、後世の人にも参照してもらえる — そう感じながら、研究に熱が入っていったことを覚えています。

ただ「職業研究者になろう!」と決意を固めたのは、東京大学で博士課程に進学し、更に日本学術振興会の特別研究員に受かり、「これだったら食べていけるかもしれない。職業研究者になってもいいかな、なりたいな」という自信を持つに至ったからです。

今振り返ると当時は「勘違い」をしていたような気もします(笑)。そのあと苦労しますから。ただ研究者にとって、こうした勘違いの積み重ねは重要で、そうした諸々が積み重なり、今に至ります。

何でも挑戦した若手の時期

—博士課程に進学した後、また特任助教から神奈川大学の准教授とキャリアを進めるなかで大学以外のお仕事もご経験されていると思います。その時のエピソードと、現在の研究者としての人生へのつながりを教えてください。

20代後半から30代前半は、チャンスをもらえば何でもやりました。

まず思い出深いのが、経済産業省通商政策局国際経済室のリサーチフェローとしての経験です。正式に手続を経て国際経済室内に自身のデスクを貰い、非常勤ですが室の一員として働いていました。

そもそもなんで国際政治学をやっている自分が経済産業省に、という話からすると、当時は時代的に2005年前後の小泉政権時代で、東アジア首脳会議(EAS)が始まる前で、今でこそ当たり前なFTA/EPAの推進もまだ緒に就ついたばかりのころです。

そうした黎明期の中で外務省も経産省も、日本の次の東アジア戦略をどのように打ち出すのかを必死に考えていた時期です。それが後々、東アジア首脳会議を軸とした日本政府の動きに繋がっていきますが、当時はまだコンセプトだのなんだのを皆で議論していたころで、その中で有識者会議の組成などをしなければならないタイミングで、博士課程の私に白羽の矢が立ちました。今でいうところの外務省専門調査員に近いかもしれませんね。

一番大きいのは、政策形成過程の中を多少なりとも垣間見れて、政府の動き方を勉強させてもらえたことです。

当時の室は私も入れて約8名程度の小規模な部署だったので課の方々も完全に仲間として迎えいれて貰えて、皆でFTA/EPAの数少ない本を読みながら議論をして、生の情報に触れながら分析をして、というプロセスは大変刺激的でした。

その後も30代前半にかけて、参議院の第一特別委員会調査室に客員調査員として2年間協力したり、若手を育成する目的もあったのでしょう、外務省や防衛省からも色々と勉強の機会を頂いたりしました。国際交流基金から事業評価の調査員を依頼されたこともあります。私たち専門家は、引き籠って研究をするだけではなく、何かしら自分の研究の価値を社会に還元することが求められるときもあります。その際に必要なのは、相手方のニーズを汲み取る力な訳ですが、その力が多少身についた気がしています。

海外での経験はどうでしょうか?

学部留学の後は、頻繁に資料収集でアメリカと往復しましたが、それに加えて博士課程から戦略国際問題研究所パシフィックフォーラム(当時)などの若手プログラムに積極的に参加しました。英語で5枚程度の政策分析を書くと旅費をもらえて、専門家の会合にオブザーバー的に参加できました。十数回は参加したと思います。博士号を取得したあとにはオーストラリア国立大学で数ヶ月博士研究員として滞在することもできました。米日財団の日米リーダーシッププログラム(USJLP)も実務家との交流ができて、鮮烈な経験でした。こういった経験を通じて、同世代の研究者とのネットワークがかなり広がることになりました。

こういった時期に国内外でともに学んだ友人たちとのつながりは今も研究を様々な形で支えてくれています。もちろん当時は、そんなメリットを気にせずに、ともに論文を読んで、色々と勝手に議論を交わしていただけなのですが。

日本のパブリックディプロマシーの最前線で:日本国際交流センター(JCIE)での経験と、故 山本正 理事長からの学び

-若手のころ、国際交流センター(以下JCIE)でパブリックディプロマシーに関するお仕事をされていたと仄聞しています。当時のお仕事の内容を教えて頂けますか

JCIEでの話は僕の随一の恩人である故 山本正 理事長(以下、山本さん)の存在抜きでは語れないので、その話からさせて貰います。当時の僕は、特別研究員の任期が切れ、いわゆるオーバードクターとなった時期です。研究のために洋書を山のように買いためたせいで借金もあり、いよいよ追い詰められたとき、当時の山本さんが手を差し伸べて雇ってくれました。当初から色々な仕事を任せてくれ、あらゆる人に繋げてくれました。僕にとって山本さんは絶対的存在で、彼に出会えたことは本当に幸運だったと思います。

例えば、僕が山本さんにお仕えするようになって数ヵ月後にやった最も大きな仕事が、ニクソン政権時代の国家安全保障担当大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャーの日本滞在中のリサーチアシスタント業務でした。ロジを含め全て1人で調整し、様々な大物政治家にアポイントを入れ対談させ、空いた時間は一緒にキッシンジャーと動いて、時には一緒にご飯も食べ、あるときは日本の名だたる政治家との対談の部屋に入れて貰い話を聞いて…。といったお仕事でしたね。

パブリックディプロマシーというとやや曖昧ですが、こうした政策対話・交流授業が、主な仕事でした。キッシンジャー博士の一件の後も、JCIEでは山本さんの下、日米、日-ヨーロッパ、日-ASEAN、日中など、現役・OB/OG含めた政府関係者との対話や議員交流を経験させて頂き、ネットワーキングや政策提言の場をずっと傍から見させて頂きました。JCIEでの勤務をはじめて、約1年で私は東京大学の特任教員の常勤ポストを得ることができましたが、その後もさまざまな形で、山本さんのアシスタントのようにお仕えすることとなりました。渡邉幸治さん、田中均さんという二人のシニアフェローにも気にかけて頂き、その後もながく指導を受けました。

-山本さんのアシスタントとして学んだ、日本のパブリックディプロマシー、ないしは政策対話・交流事業を考える上でのポイントや、今後の課題とは何でしょうか?

山本さんの下で学んだ一番大きな点は「人のつながりと、つながりの中で同じ方向を向いて仕事をすること」の重要性です。

パブリックディプロマシーを語る中でしばしば混同される「発信」と「交流」は全く違う (…)お互いにネットワ—クをつなぎ、意見を交換し、価値観をすり合わせて同じ仕事が出来る仲間をつくる「交流」をしなければならない。

ここで意識しなければならないのは、パブリックディプロマシーを語る中でしばしば混同される「発信」と「交流」は全く違う点です。山本さんは、よく「発信なんてやってもしょうがない、交流しろ」ということを仰っていました。

パブリックディプロマシーはメッセージを伝えたい場合も、一方的に自分達の想いを伝える、「発信」だけではダメです。お互いにネットワ—クをつなぎ、意見を交換し、価値観をすり合わせて同じ仕事が出来る仲間をつくる「交流」をしなければならない。山本さんが主宰した下田会議、日米議員交流、三極委員会と、全てにこの理念が貫かれています。

その意味で、最近の日本のパブリックディプロマシーの課題は、「発信」ばかりに力を入れ、「交流」が疎かになっている感が否めないことです。日本政府や各助成財団の事業にしろ、一方向的であるとか、一度限りのものであるとか、あるいは活動資金を助成するだけで終わらせてしまうパターンも多い。こうした手法は、中国や韓国が得意とする手法ですが、日本の有識者・専門家がそうした事業を問題視していないこともままあります。

私自身も時々、「発信」となり後悔することがありますが、山本さんのDNAを受け継いでいる身として、同じ専門家コミュニティの仲間達と折に触れて会い、共に仕事をすることを大事にしています。同じ分野の専門家の世界でのそうしたネットワーキングは、本来は極めて価値が高い営みなのですが、日本ではこの視点が少し弱いように思えますね。

-研究者が自らの専門知を活かして日本の政府・準政府系機関が展開するパブリックディプロマシーに関与する際の留意点などをお聞かせください。

研究者という専門家は自らの専門性を持って新たな知を創造するのが仕事です。そのための道具立てとして理論や歴史的知見を活用しており、逆に言えば、私たち研究者は自らの道具を用いて分析し、創造した知識でしか戦ってはいけないと思います。政府が行っていることをそのまま繰り返すとか、政府見解を解説してみせるのは、専門家の仕事ではないわけです。

私たちは政府のスポークスマンではありません。政府の有識者交流事業に参加する中で、現地の在外公館長に「学者は自由でいいですね」と皮肉交じりに言われたこともあります。そう言われることにある意味で学者の矜持と思いますし、「良いことを言ってくれてありがとうございました」なんて言われてるようなら、それはもはや研究者とは言えないと思います。


―ありがとうございました。中編となる次回は現在の米中競争の中でのワシントンの専門家コミュニティの諸相、そして、米中対立の激化の狭間にある研究者コミュニティのいまについて、お話を伺います。

(聞き手:山本貴智・平井拓磨  / 編集:瀬戸崇志)

佐橋准教授には2019年9月9日に開催した『政策起業力シンポジウム2019』での個別分科会B『新領域/フロンティアの外交・安全保障-研究と政策を繋ぐこれからの研究者の役割-』にご登壇頂きました。分科会の詳細と動画についてはこちらをご覧ください。